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福島第一原発ツアーにいきました


福島第一原発20kmツアーに参加した。




原発は、いつのまにか政治の話題になってしまった。

いや、世の中にある全てのことは、本当には政治的・社会的たらざるを得ないのだけれども、極めて意見の対立が現れやすい問題に、そして、そこに住んだ人たちから離れた問題に、原発は、なってしまった。

自分が見たものや、体験したものが全て正しいとは思わない。
だけれど、真摯に見つめることからしか、なにも始まらない、と思う。


この記事では、なるべく伝え聞いたことを、忠実に書こうと思う。

それは、事実を見つめることにつながると思うからだ。







南相馬市(原発から30kmくらい)にある、「野馬土」という産地直売所で、ガイドさんと待ち合わせ。
わたしの家の車に乗ってもらって、出発。

集合前、こわい人だったらどうしよう、とか、勝手に心配していたのだが、杞憂だった。

そこに何があったか、何がなくなってしまったか、ということについて、(かなり客観的に)教えてくれた。


そこにあったものを見つめる、というのは、ただそこに行くだけではできないことで、その土地をよく知っている方の話を聞かなければ、そこにあったものについて知ることはできない、とつくづく思う。






請戸小学校。

窓ガラスについた泥の高さまで、津波が来たらしい。
津波の高さ、ここは跡が残っているからわかるけれど、多くの場所は、じっさいどの高さだったのか、今となっては分からないそうだ。

ここにいた子供達は、先生方の的確な判断によって、全員無事だったらしい。

以前はなかにも入れたが、今はバリケードが建てられていて、なかに入ることはできない。






時計は、15:38で止まっていた。







子供たちが避難した先の山、には、慰霊碑が立っている。

助けを求める声は聞こえていたけれど、
原発の事故で避難指示が出ていたため、救えなかった命も多かったらしい。


3月12日。20kmや30kmという区分けで、避難勧告が出された。
けれども、風向きの問題もあり、必ずしも距離で安全を測ることができるわけではなかった。

安全だったのに家に帰れなかった人、救えなかった人、危険なのに避難できなかった人。
区切ること、数字をつけること、このことによって、多くの人が亡くなり、不安な生活を送ることになってしまった。

わたしたちは、さまざまなことを数字にして、わかったような気持ちになってしまう。
だけど、本当にはなにもわかっていないのかもしれない。

東日本大震災の死傷者数は、15,895人と言われている。
数字にしてしまうと、一人一人を同じ人のように思ってしまうけれど、すべて、違う人だ。数字だけでは、つくづく、なにもわからない。







ここから少し行ったところには、もともと原発建設に反対していた方達が住んでいた集落があった、と教えてもらった。

今でこそ、原発のリスクはよく知れ渡っているが、以前はそうではなかったため、彼らは他の集落からは冷遇されていたらしい。
(海難事故が起きた時に助けてもらえない、など)

彼らの集落は、津波で流されてしまって、今はなくなってしまった。
反対していた人がいた、という事実も、語り継がねば少しずつ忘れられていくのかもしれない。







原発から10kmほどの地点。

イノシシが多く出るようになってしまったそうで、あちこちにイノシシの檻があった。
このあたりは、帰宅困難地域の指定から外れ、ふたたび住むことができるようになったが、今はお年寄りしか戻ってきていないらしい。

1100人いた小学生たちは、10人しか戻ってこなかったそうだ。

線量は、たしかに下がってはいるのだろう。
国が集めた統計の、人が住める基準を満たしても、いるのだろう。

だけれど、自分の子どもをこの土地に住ませるのは、不安だろう。

いくら安全に問題がない数値だといっても、
あれほど安全だと言われていた原発は、爆発してしまったのだから。

人が大勢戻ってくるようになるまでには、まだ時間がかかるかもしれない、と思った。








ガイドの方は「見えないからこそ、たちが悪い」と、しきりにおっしゃっていた。

多くの若者が街に戻ってこないのは、
事実として線量がどう、ということもあるだろうけれど、
それ以上に、見えないことによる不安が広がってしまったことにあると思う。

本当に線量が下がったとしても、不安は消えない。
ほんとうに人が、安心して住めるようになるのは、この不安が解消されたときだけかもしれない。





それから、原発の5km圏内へ。

5km圏内は、一般車でも入ることができるけれど、
車の外に出ることは、いまだ許されていない。
(だから、ほとんど写真は撮れなかった)

写真の遠くに写っているのは、双葉厚生病院。
事故後、避難を余儀なくされた多くの患者さんが亡くなったらしい。


ほとんどの道は閉鎖され、「除染土堆積車」と記されたトラックばかりが走っていた。
多くの家の前には、バリケードが張られ、住人でさえ、自分の家に自由に入ることはできない。


ガイドの方がときどき、「いやだなあ」と独りごちているのが、印象的だった。







どうして、こんなに大きな悲しみが生まれてしまったのだろう。


わたしは、原発事故が起こるまで、原発には賛成派だった。
いや、いまでも、即時廃炉にすべきとはまっすぐには言えないでいる。

いや、本当は言いたい。
言いたいのだけれど、わたしは、わたしたちは、便利な生活に慣れすぎてしまった。


目の前のパソコン。
スマートフォン、テレビ、エアコン。みな、電気で動いている。
それは、少なくとも部分的には、どこかの原発で作られたものだ。

原発を止めれば、市場の原理によって、電気代は上がる。

わたしは、こうしてnoteで、かなしいかなしい言っているが、
その一方で、部屋のエアコンを消すことができないでいる。

わたしたちは、この便利な生活を、もう手放すことはできない。





今日も、いくつかの原発で、再稼働に向けて準備が進められている。

どうしたら、わたしたちは、この大きなかなしみを断ち切ることができるのだろう。



福島からの帰り道、
東京の夜景は眩しすぎた。



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みなと
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