さようならミツバチ
ミツバチのことも考えて、最近ふと、ツイッターをやめた。
つぶやくのは続けているのだけれど、
ひとのつぶやきを読むのは、からっきしにしてしまった。
何食べた、とか、どこに行った、とか、すこし、つかれた。
きみが生きているその瞬間に、価値なんて無くてもよいのに。
外に出ると、今年もたくさん、蜂が死んでいた。
ーーはたらき蜂って、交尾しないんですよ、ただ生きて、ただ死んでく、あれって、どういうモチベーションなのか、小さい頃から、不思議で不思議で、(0.2)だからその、なんていうか、巣全体が動物、みたいな、そういう感じ、なんですかね?
ーーーブンブンブン。(なにいってるのかわかりません)
かえって、にんげんの方が、不思議なのかもしれない。
ただ生きてただ死んでいくだけでは、なかなか満足しないし、
モテないと腹を立てて、人にやつあたりし始めたりも、する。
まいにちツイッターで、オススメの作品なんか紹介しちゃったりも、する。(ごめんなさい)
価値の名に値する価値があるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外にならなければならない。
生起するものも、かくあるものも、すべては偶然だからである。(Wittgenstein 1921=2003)
ひとは、ひとを幸せにしたり、悲しませたりすることが、あるかもしれない。
でも、なにをしても、タンパク質の塊が空気を震わせているだけだ。
それは、蜂が空気を震わせることと、同じかもしれない。
(ぜんぜんちがうかもしれない)
とはいえ、にんげんたちは、あくせくしているかぎり、かわいいとおもう。
ひとり、孤独に向き合うひとがかわいいのと同じくらい、
ツイッターでいちいち食べたもの呟いちゃうのも、かわいいのかもしれない。それは、人間のオリジナリティ、ということで。
おいしいタピオカを探して、今日も街を彷徨している女子大生、かわいいじゃありませんか。LINEおしえてください。
そういうわけで、みんな、やったことだけではなくて、やらなかったことをも、ツイートすればよいと思うのです。
つまり、「今日はプールに行きませんでした」とか、「今日は3回デートしませんでした」とか、なんとか、かんとか。
やらなかったことの報告。
小学校の時、「宿題やりませんでした」と自分から言うような生徒は、クラスのみんなからの人気者でした。あなたのクラスでもそうだったはずです。
その、やらなかったことの潔さ、私はやらなかったことの報告にこそ、やることだらけで行き詰まってしまった現代の突破口があるのではないかと思うのです。
みなさん、どうですか、「やらなかったことの報告ツイート」。台風の翌日にさえ、やることに忙殺されてしまっている日本人にとっては、あたらしい発見があると思います。おすすめです。めんどうなのでわたしはやりません。
トップの写真:やることがなかった大学4年の秋。「忙しい」を合言葉に空を毎日眺めていました。