がんばらないチンパンジー
高校生のときは、「がんばる」が口ぐせで、その時なりに、あれやこれやと、いろんなことを頑張っていた、つもり。
この、「ぐら」というのがわたしで、たぶんこれは、冗談のつもりで言った言葉なんだけれど、それでも「がんばる」は口ぐせだった。
うつ病の人に「がんばれ」と言ってはいけない。
・・・というのはよく聞く話だけれど、なんて声を掛けたらいいのか、私はいまだに分からずにいる。「応援してます」じゃ、なんか変な感じがするし、主語が相手から私に変わるとしても、ただ言い換えただけのような気もしてくる。
何年か前に、仲間だと思っていた人から、「企画がんばれ」というようなことを言われて、ひとりになったような気分がした。お前も頑張るんちゃうんかい!と。
うつ病の人がどう感じるのかは分からないけれど、「がんばれ」って、がんばる人と距離を取る言い方なのかもしれない。だからこそ、「がんばれ」には、いつも寂しさがつきまとうのだと思う。
動物たちは、いまここにないことを考えることができないらしい。
未来について思いをめぐらせることは(たぶん)なくて、彼らは、目の前のことだけを考えている。
チンパンジーたちは、紐で吊るされたリンゴを、イスを踏み台にして取ることができる。だけど、イスに他のチンパンジーが座っているときは、イスを使うことを考えることもできない。
それは、仲間をどかさないチンパンジーたちがやさしいということではたぶんなくて(そうだったら素敵なんだけど)、彼らが世界をあるがままにしか見ることができないからだそうだ。
チンパンジーの世界では、そのイスはもう、踏み台ではなくて、座るものでしかなくなっている。彼らの世界は、あるがままなのだ。
そうだとすれば、チンパンジーたちは「ウキウキ」言っているけれど、きっと「がんばれ」とは言っていない。「がんばれ」は、あるがままの世界から離れているから。
「がんばれ」で苦しんでいる人が少なくないことを考えると、チンパンジーたちは、やっぱりやさしいのかもしれない。ニンゲンみたいに、無責任に「がんばれ」とか言わないし、仲間のイスを踏み台にしたりしないし。
チンパンジーは、やさしい。
だから、新社会人のわたしへ。
今日からわたしは、がんばらないチンパンジーになろうと思います。
リンゴは、木から、取ります。