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建築批評:横須賀美術館(「景色」について)

01. 横須賀美術館へ

2021年末に家族で横須賀美術館を訪れた。
今までにも何度か来たこともあり、好きな建築の1つだ。
今回は1歳8か月の息子を連れ、建物前面に広がる芝生の広場で一緒に遊ぶことを楽しみにしていた。

芝生の広場は、敷地境界線に向かって勾配1/20の緩やかなスロープになっており、
レストランのテラス席からは、芝生・道路・海・空が一連の、連続した風景のように見える。

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すぐ手前の地面がそのまま、遠く、遠くの風景に続いていく様を眺めるのはとても気持ちがいい。
不思議と「これまでのこと」や「これからのこと」の大局に、思いをはせる機会を得る。

芝生の下り坂を、子供がはしゃいで走っていく。
それに小走りでついていくと、あっという間に坂のふもとに到着した。
勾配1/20のスロープは駆け降りるのも上がるのも、とても気持ちがいい。
先ほどまで近くにあったテラス席と建物はすでに、森と青い空を背に、芝生と連続した遠くの風景となっている。

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すると、以前は気に留めていなかった生垣が目に入る。
遠くからでは気づきにくい低い生垣が、芝生と道路の境界線にはあった。

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道路への飛び出し防止用と推察できるが、さっきは連続していると思った芝生と道路が、実は低い生垣で分断されている。
そんな当たり前のことにハッとしてしまった。

遠くの風景では連続しているものが、干渉できる距離まで近づくと分断されている。
見る・感じる対象が同じでも、遠景か近景かによって連続性と非-連続性が切り替わる。
たかが生垣の高さ設定だが、これはとても建築的なデザインだなと感じた。


02. 景色:遠景/近景

遠景に心地よさを感じるのは、近々の物事を一度忘れて、遠くのことや未来のことを自分の指針として、整理し組み立てる機会が生まれるからだ。
遠くに見える海、山、建物が自分に連続していると実感できる時、それらは「遠景」となり自分の絵空事の一部とすることができる。

また、この話は距離的なパースペクティブに限った話ではない。
昔ここには都があった、
昔ここには自然豊かな山があった、
昔ここには全く別の文化と言語があった
・・・など、時間的なパースペクティブ、つまり歴史も、遠い風景を眺める行為と捉えることができる。
眺めているだけでは何もできないが、何もできないぐらい遠いからこそ、遠景は映える。

近景はそれとは逆に、自分に近すぎる物事で構成される。
その日の食事や仕事のノルマ、
その他生きていく上で常に必要とするもの、
隣人やすぐ近くの動植物などの自然環境、
もしくは自分のアイデンティティに強大な影響を及ぼしている歴史的事実など、
様々な近景から常に影響を受け、あくせくと生を営んでいる。
あまりにも多くの近景に晒されると生活がパンクしてしまうが、
個々人によって全く異なる近景はその人にとってのリアリティを構築してくれるし、
僕たちが思いを実行にうつし世界に干渉できるのは、遠景においてではなく近景において、である。

遠くを眺めているだけでは得ることのできない切実な生の実感ととめどない行為は、「僕が僕であること」を脳裏と身体に刻む。


03. 中景=潜在的公共性

人生は遠景と近景の繰り返しだと思う。

実行=近景と構想=遠景。
目の前の道をひたすら進んでいる時もあれば、一度立ち止まり遠くを眺め行くべき先を見定める時もある。

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