中村草田男「鳴るや秋鋼鉄の書の蝶番」
中村草田男の全句集にはこの句の隣にこのように書かれている。
二句目はこちら。
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二句で一つの句と捉えるべきかもしれないが、
こちらの句だけを取り上げたい。
意味は「鳴る。秋。鋼鉄の書の蝶番。」である。
やはり「鋼鉄の書の蝶番」という言葉にはとてつもない引力がある。
鋼鉄の書とはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を指す。
しかし、前提となる知識がなかった場合、どのような本を思い浮かべるだろうか。
聖書だろうか。それとも、家系図だろうか。もしくは日記かもしれない。
とにかく作者がその本を開くとき、どのような思いをしているのか。
読者は鋼鉄の二字をヒントに推理をしなければならない。
蝶番という言葉もオリジナリティがある重厚な響きがある。
響きといえば「鳴るや秋」
いったい何が鳴っているのだろうか、「鋼鉄の書の蝶番」だろうか。
それとも、「秋」だろうか。いや、作者の心か。
この俳句には明らかに「音」というテーマが内包されている。
「鳴る」という動詞は、読者に聴覚的なイメージを強く喚起しつつ、
音の正体を曖昧にすることで多義性を生んでいる。
鋼鉄の蝶番が軋む音だとすれば、それは書物を開く瞬間の物理的な音にすぎない。
しかし、「鳴る」が象徴するのは、作者の内面で響く音かもしれない。
鋼鉄の書に触れるときの畏怖、感銘、あるいは反発が「鳴る」という動詞に凝縮されているとも考えられる。
ここまで計算されているのにも関わらず、
秋という季節の提示は感覚的だ。
たとえば「鳴るや九月」とした場合は時間が実存的だ。秋という季節はあるが九月はもっと明確に存在する。なぜ、秋という音にしたのだろうか。
「鳴るや秋」は、物理的な音だけでなく、秋という季節そのものが「鳴る」ような感覚をも引き起こす。これは自然の移ろいや静けさの中で、心が鳴り響くというような内的感覚と結びついているのかもしれない。
この俳句の魅力は、具体性と抽象性の絶妙なバランスにある。
「鳴るや秋」という感覚的な導入から、「鋼鉄の書の蝶番」という重々しい結びに至るまで、句全体が音、季節、物質、心象といった要素を凝縮している。
それらが互いに響き合いながら、読者を深い思索へと誘う。このような句は、俳句の短い形式だからこそ生まれる濃密な表現の妙といえるだろう。