自分忘れの偉人:葛飾北斎・おおたにサンに学ぶ「自分」の忘れ方
自分忘れの偉人、すなわちマインドフルネスの天才として、葛飾北斎は、お釈迦様、おおたにサンとひとつに重なります。彼らはお釈迦様の教えを実践的に学ぶ禅僧のお手本のように宇宙を楽しみます。個性だ!多様性だ!「自分らしく」「自分探し」自分。自分。と言ってる限り、自我に苛まれ肥大化した自我執着心に蝕まれます。
日本のように社会という言葉があるだけで、何かにつけ実体のない「の。ような国」で生きるには、自分を忘れて対象になりきるマインドフルネスの真髄にしあわせがあります。
この絵は信州上町の祭屋台天井に描かれた北斎の男波(左)・女波(右)です。
ヒトのしあわせにも、内的なしあわせと外的なしあわせがあります。
内的なしあわせの原動力が内発的動機づけで、「内発的動機づけ」は人生脚本と密接な関係にあります。
自由で豊かな人生100年時代を過ごすために欠かせない素敵なライフデザインをしていただけるように、ライフデザイン、ライフプラン、内発的動機づけ・・・
その関係を広い宇宙で、ただひとりで過ごしている大切なあなたに向けて、紐解きます。
内的なしあわせと外的なしあわせ
内的なしあわせとは、精神的な満足や楽しさのことで、心の充実や平静さが得られます。但し他者からは解りにくく、認識が困難です。一方、外的なしあわせとは、地位や名誉、財産、権力といったものなので、他者にも認識が容易で解りやすいものですが、実際には本当のしあわせとは言い難いものです。理想は両方のバランスのとれた成功が望ましいようです。
内的なしあわせ、内的成功は、内的で本質的な欲求によって引き起こされる行動のことで内発的動機づけと呼ばれます。つまり個人の行動の要因となる、内面から湧き上がる動機づけ (モチベーション) のことです。この場合、モチベーションは、報酬や称賛など、外部からの誘因に関係なく、自分自身からのみ発生しているのでしあわせ力も強いのが特長です。
2500年前、お釈迦様はヒトが抱える四苦八苦の苦しみを解決する方法として、一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の四法印(しほういん)を説きました。お釈迦様はもともと王子様でしたので、外的なしあわせは手にしていましたが、内的なしあわせを求めて外的なしあわせへの関心がなくなり、捨ててしまいました。「自灯明・法灯明」の教えで解るように、外的なしあわせは、自利利他、慈悲に帰結します。
200年前、人生50年の時代に生きた葛飾北斎は筆で内的成功を実現しようと、絵以外に何も興味を示さず、病魔に侵されながらも風景を描くために歩き、自分が作ったゴミの山から逃げるために、あばら家を93回も転々として、90歳で亡くなるときに、あと5年いのちがあれば、真の画家になってみせるのに・・・と言い遺してこの世を去りました。
生きている間、彼の内面は好きなこと一点に生涯を投じたことで、特に70歳以後は、画家として、より高みに挑み続けることで、常に涅槃寂静にあり、これ以上なく、しあわせだったでしょう。
歴史上、類稀な画家として死して外的成功を自然に引き寄せました。
北斎に負けない大谷さん
現代を生きる大谷翔平さんは、涅槃寂静へのプロセスとして一切皆苦・諸行無常・諸法無我を夢への道のりにして、夢を叶え、いまも笑顔で歩んでいます。多くのヒトが彼の一挙手一投足に惹きつけられるのは、普段目にすることができない「北斎同様に内的なしあわせへ一途に挑む清々しい態度」によるものです。内的しあわせを実現することで、すでに自然に外的なしあわせも引き寄せました。
歌麿・写楽・北斎
喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎・・・世界的に有名な浮世絵師の人生はその作品以上に面白いですね。ヒトそのものが魅力的だから作品も面白いということなのでしょうね。
中でも東洲斎写楽の絵師として解っているキャリアは一年に届かずなんと一気に28図を出版、現在に至るも正体不明のままです。版元・蔦屋重三郎との関係で、その写楽を追いかけたと想像される葛飾北斎が美人画を50歳代で極めて独自のスタイルに転身「蛸と海女」を経て、世界に名を馳せる「富嶽三十六景」を世に出したのは70歳を超えてからでした。
富嶽三十六景
知名度の高い「富嶽三十六景」は木版画で、描いた版下を版元と共同作業で仕上げ、大量に印刷したものを販売したものです。木を削る作業が入るので作家の描いた線がそのまま生かされていません。
北斎の描く波の緻密な画風はますます精進して、75歳を契機に北斎の名を捨て画狂老人卍と名を変え肉筆画に転身します。画風は変身を重ね、変わるたびに変えた名前も30を超え、最晩年の名が画狂老人卍でした。
波濤図
そうして完成したのがワシントンにあるフリーア美術館門外不出の「波濤図」でした。
北斎は商業絵師からアーティストに転身することで描きたい絵を書くことに身を投じたのです。当時は解明されていなかった脳梗塞を病みながら「雷神図」や「波濤図」を描いたのは88歳、神妙の域をめざして、もっとうまくなりたいと死ぬまで格闘を続けて「漁樵問答図」を90歳で描きあげています。享年90歳、死に際に「あと5年生かしてくれ」とめざした高みに到達できなかった無念を言い遺したたそうです。
一切の家事を嫌い、ゴミ屋敷になったら引っ越し、あばら家を転々とし、酒も飲まず博打もせずお金に無頓着、生涯の引っ越し回数93回、絵を書くことだけに生涯を投じたのです。
その絵は3万点にのぼり、いまも人気がありますが、70歳以前に描いたものは取るに足らないものばかりだった商業絵師の時代を振り返ります。人生50年の江戸時代の70〜90歳のことですから、現代に置き換えたら150歳を超えていたのではないでしょうか。長生きできたのは70歳にして歩き回りスケッチした「富嶽三十六景」の影響大、筋肉が鍛えられるのみならず筋肉が発信するメッセージが海馬も鍛え、根気のいる緻密な線を描くエネルギーになったようです。
辞世の句「ひと魂で ゆく気散じゃ 夏の原」
その意味は、人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか。だそうです。悔しさが滲み出ているように思います。
本人は不本意だったでしょうが、生きている間は没入することで我を忘れ、内的な成功をおさめ、死して外的な成功をおさめたのです。
つまり世の中なんて、ただダダ広いだけの空っぽの空間。
なんにもないからすごいヒトに寄ってくる。それを業にするものはすごいヒトを作り上げる。
本当にすごいヒトは自分さえ忘れて自分の宇宙に閉じこもっています。政治は必要だけど自我執着心はあっても、良識すらない政治家なんてロクなものではない。
人工知能で十分事足りることを統一地方選は露呈しました。人工知能は人間の集積だけど、自ら学び磨きをかけ、いつの日か人工知能は自我執着心の塊である中国共産党は戦争することになるでしょう。
正義の基準はどんな世になっても世界とひとつになる「無我」にあるのではないでしょうか。
内発的動機づけ
葛飾北斎について、面白いエピソードをひとつ。
ある時、ある藩主(津軽藩主・津軽越中守という説がある)が屏風絵を依頼してきた。
使者が何度も北斎を招いたがいっこうに赴こうとしなかった。10日ほどしてついに藩士が北斎宅までやってきて、「わずかばかりではありますが」と5両を贈って藩邸への同行をうながした。
「屏風が殿のお気に召せば若干の褒美もありましょう」と言葉を添えたが、北斎は用事があると応えて行かなかった。
数日してまた藩士が訪問し再度同行を促したが、また北斎は断った。
とうとう藩士は憤慨し「この場で切り捨てて、私も自害する。」と怒り出すが、集まった人々が藩士をなだめ、北斎に出向くよう勧めるなど、その場は大騒ぎになった。
それでも頑として拒否し続ける北斎は「じゃ前にもらった5両返せばいいんだろう。明日金を藩邸に送りつけてやる。」と言い出したので、藩士も人々もあきれはてたが、一先ず、その日はなんとか収まった。
数カ月後、招かれないのに唐突に藩邸に現れた北斎は、屏風一双を仕上げて帰った。
常に赤貧で不作法な北斎であったというが、気位の高さは殿様にも負けず、富や権力でも動かないことがあったといいます。
赤貧も不作法も、何にも勝る内発的動機づけの有無の成せる技だったのです。
葛飾北斎は自分忘れの名人でした。すべては芸術に捧げられました。
おおたにサンも同じです。彼らは禅僧のお手本のように宇宙を楽しみました。
マインドフルネスで自分忘れ
マインドフルネスとは、対象になりきった状態のことです。
葛飾北斎は自分忘れの名人でした。すべては芸術のために捧げられました。おおたにサンも同じです。彼らは禅僧のお手本のようにマインドフルネスに宇宙を楽しみました。
個性だ!多様性だ!「自分らしく」と言ってる限り、自我に苛まれ、しあわせではありません。
特に日本のように社会という言葉があるだけで、何かにつけ実体のない「の。ような国」で生きるには、社会を大切に考えた方が良いようです。
好きなこと、得意なこと、頼まれること、褒められることには、内的モチベーションを高めるきっかけがあります。
デジタルスキルを掛け合わせると、ライフシフトするリスキリングへのモチベーションになります。高度なAIは、自我執着心を忘れて宇宙と結びついたとき最大限の働きをします。
自分を忘れて対象になりきる。禅の教えに習うマインドフルネスの真髄にしあわせがあります。