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祐気取りの旅 熊野(3)この世とあの世を行ったり来たり

 浄土の入口から新宮駅という「この世」に戻ってきました。翌日はゴドビキ岩から熊野速玉大社へ、さらに熊野那智大社から那智の滝へと考えていたのですが、どのようなルートを取ろうかと迷っていたところ、観光案内所という一筋の光明が。しかも係の男性は実に丁寧に教えて下さいました。
 あれ?ここも、浄土なのではなかろうか。

 2日目はなかなかタイトなスケジュール。日の出の7時にゴトビキ岩まで登ります。ゴトビキ岩とは、熊野の神様が初めて地上に降り立った場所とされ、巨岩が御神体として、熊野速玉大社の摂社である神倉神社に祀られています。

 熊野に詣でるならここに来ない訳にはいかないと、旅の計画を立てる時から考えてはいたものの、麓から538段の階段は、はっきり言ってかなりきつい。登り始めてすぐ、無事に下山できるだろうか、滑り落ちれば死んでしまうなと心配になりました。それでもここまで来たんですから、一段一段慎重に歩を進めます。そういえば、つい先日、滋賀県の日吉大社の磐座に登った時も、同じことを思ったような・・・・。

 公式HPには「神倉神社の石段は急勾配なので、御年配の方は下の鳥居でご参拝下さい。また、飲酒者や踵の高い靴での登拝は、危険防止上、お止め下さい。」という注意喚起がありますが、マジです、これ。甘く見るとエライことになりますよ。ましてやこんな神聖なところに、飲んでから登ろうなんて。

足場が不安定で登りも怖い
山道も怖いがこちらも怖い

 日の出直後の空気は澄み切り、冷たい風が頬を刺します。この日のためにトレッキングシューズを購入して本当によかった。
 頂上に近づいてきた頃、不思議な高い音が聞こえてきました。動物の鳴き声?人の声?でもあたりにそんな気配はなく、不気味で怖い。しかも登るにつれて、音は大きくなってゆくのです。何、何、何?キャー!

 頂上に到着し、音の謎が解けました。ゴトビキ岩の前で祝詞をあげている人がいたのです。男性にしては甲高い声でした。音の正体が分かれば怖くなく、その方の祝詞が終わるまで、新宮の日の出の絶景を眺めながら待ちました。よくぞここまで登ったものだと、達成感に満たされながら。

熊野の神様がいつもご覧になっている景色

 御神体であるゴトビキ岩を撮影したり触れたりするのは憚られ、画像を上げることはできません。ただその巨大さと、落ちることなくそこに留まっている不思議さに圧倒され、手を合わせた後は岩をずっと見上げていました。

 風化によってできた岩だと今では分かっているそうですが、こんな巨岩を見た昔の人は、神のなせる業として懼れおののき、これは必ず祀らねばと思ったに違いありません。自然の力は圧倒的です。人間なんて実に小さな存在であることを、あらためて思い知らされた気がします。

山道は下りがさらに怖い

 あともう少し、がんばれがんばれ、一段一段気を付けてと自分に言い聞かせ、怖ろしさにちょっぴり泣きそうになりながら、なんとか無事に麓まで下りました。苦手な山道の上り下りは本当に大変でしたが、ここを訪れたことには重い価値がありました。

 さて、次は熊野速玉大社へ。ゴドビキ岩からは徒歩で20分ほど。平坦な住宅地を歩けるのが夢のようです。

熊野速玉大社

 朝まだ早い熊野速玉大社は人もまばらで、澄んだ気が満ちていました。社殿は撮影しない主義なので画像はありませんが、青々としたクスノキの大木を背景に、整然と並ぶ朱塗りの社殿は実に清々しいものです。
 
 ゴドビキ岩の神様は直球で、熊野速玉大社の神様は柔らかく穏やかにと、表現方法は異なれど、「神なるもの」や「聖なるもの」が確かにそこにあることを、伝えて下さっているように思います。

 ゴドビキ岩はその存在だけでなく、そこに至る道の険しさや怖ろしさも含め、「この世」ではないところという感覚がありました。大斎原の向こう岸のように、「あの世」感が強いのです。熊野には「この世」と「あの世」が散りばめられているようです。

 さて、再び新宮駅という「この世」に戻り、熊野那智大社と那智の滝を目指します。

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