読書記録:金閣寺 三島由紀夫
純文学に触れようと思った。
そうしたら、最初の1ページで、国語の教科書を思い出して、参ってしまった。
国語、嫌いだったなあ。
バツがたくさんついたテストが返ってくるたび、不服でならなかった。でも今思い返せば、わたしは答えを探すために文字を追っていた。作者の気持ちを気持ちで捉えず、機械的にマスに文字を当てはめていた。それはバツでも仕方ないよなあ、、とは思いつつ、やはり国語の授業に対する不服感は拭いきれない。作者の気持ちを答えるのに、作者でない誰かにバツをつけられるって、なんなのだ。捻くれているだろうか。決められた答えをゴールとせず、いろんな考えを、感情を、ひょいとつまみとって、そこで生まれる共感や違いを、そうだねって認め合ってはい終わり、じゃだめだったのだろうか。
今って、どんな授業しているのかな?
それはさておき。
今は何にも縛られず、自由に読める!
けれど、読み終えて第一声、難解だ、、
感想をカタチにできる気がしなかったのだが、それを“解説”が助けてくれた。最後の最後にあった、恩田陸さんの解説。断片的な、わたし感想のひとつひとつを、グラグラだけどなんとか積み上げられる、くらいにまとめてくれた。
“金閣を焼く”をそのままのスケールで受けると、なんだか壮大すぎて理解し難い。でも、小さな金閣に相当する存在ならば、わたしの内にもある。それは概念のようなもので、そいつのせいで、不自由を科せられたように、心の身動きがとりにくく、生きにくいな、と思ったりする。誰しもそういう金閣めいたものを、心の内に持っているのかもしれない。“金閣を焼く”って、そいつを破壊して自由になってやるぞ、という行為なのだと、解釈した。
しかし彼は焼く直前で、“世界を変えるのは行為ではなくて認識だ”と認めている。破壊という行為に及ばずとも、認識できっとどうにかできたであろうに。共存という選択肢も、見えていたはずだ。それでも彼にその行為をさせた、臨済録の一節が、わたしにはハテナである、、。彼の心に強く訴えかける何かが、その一節には秘められているのだろう。
また後年に読んだときには、解るといいなあ。そしてその時には、恩田陸さんのお力を借りずとも、自分の心で『金閣寺』の解釈を得たい。
それにしても、三島由紀夫の文章には恐れ入る。
他人の一挙一動に対して、五感の隅々まで使って、意味を感じとっている。また、自分の中の陽陰さまざまな感情に対して、事細かに分析している。そこに生じる矛盾すら辻褄が合うのだから、すごい。そしてそれらの詳細な観察を、正確に文章に置き換えるという、とてつもなく繊細なプロセスを行っているのだ。
それは、名著でございましょう。
三島作品、また別のものも、挑戦したい。
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