みんな矛盾のなか生きてる


気づいてしまった

たしか、21歳ぐらいのときに
「思ってたよりも、この世界はきれいなものではないかも」
と気づいてしまった。

それまでは、疑うことさえもしてなかった。逆になにも知らなかった。

それまでは、
努力は報われる。とか
頑張ったらどうにかなる。とか
Aをしたら結果Bになる。いかなるときも。例外なく。と思っていた。

というのも、人生において大きな出来事って受験勉強ぐらいしかなかったし
ちゃんとどこかで働くこともしたことなかったし
社会問題に向き合ったこともなかったから。

社会のことも知らなかった。
ニュースでやっている表面上なことしか知らなかったから。


純正無垢な

20歳になる春に3.11があって、政府の動きだとか、東電の動きを見ていたり、
震災をきっかけに、社会のことを知りたくなって、いろんな人に会いに行って、海外にも行ってみた。

それから
おやおや。なんだか考えてもなかったけど、世の中そんな簡単にきれいごとではないぞ、と。


大量生産大量消費のうらで、人が亡くなり
長時間労働のせいで、人の心も、時には命まで亡くなり
エネルギーの使いすぎで環境も悪くなっている。

明らかにそれってよくないことなのに、なんで大人はそれに平気なの。
なんでなにも思わないの。
わたしはそんなふうには生きたくない。って

純正無垢な、処女のような、真っ白いドレスを着たような
そんなふうに生きていくのだ、と思っていた。
矛盾なんてものは必要なくて
たった一つの正義を目指すのだ、と意気込んでいた。


矛盾を生きること

それから10年経ってたくさん経験して、たくさんいろんな人に会ってきて思うことは、みんな矛盾のなか生きてるってこと。

そんなに社会はきれいなもんじゃないのよ、残念ながら。
大丈夫、そんなにがんばってもきれいな社会には生きれないし、
生き残れないのよ。

でも、それは喜ばしいことに全くもってネガティブなことじゃない。

いい意味で肩の力を抜いて、より視野が広くなって集中できて、周りに優しくなれることなんだと思う。

ナチュラルなコットンが真っ白じゃないのと同じように、ものごとはそもそも真っ白なものがないし、それを真っ白にしようとすると必要のない薬品を使って真っ白にする必要があるんだよね。
それにたぶん、真っ白を目指そうとすると、それが目的化して、すっごい肩に力入れて鼻息荒くして、目をかっ開いて「白じゃないもの」を除外しようとするんだけど、それってそもそもそんなに必要なのかな、っていうか。

だから、まあこんなもんか、って思って大丈夫。

そうすると、肩の力がスッと抜けて、低い視点から一点集中して見てたのが、少し高い視点からもう少し広く見れるようになってくる。

そうすると、より世界が広がって、ああみんな同じだよね〜同じとこで悩むよね〜わかる〜ってなりながら、共感できるから周りに優しくなれる気がする。



みんな一緒だから

そう。そして、どんなに社会にいいことをしようとしてる人でさえ、矛盾をみんな抱えているの。みんな。

それに、学生の時の入学〜卒業と違って、やってることが数年で答えが出ないことにみんな挑んでいたりする。
だからいま、ここの瞬間だけ見たら矛盾かもしれないけど、長く長く長い時間軸で見たら、それは矛盾じゃないってことも有り得る。

繰り返し言いたいのは、矛盾のなかに生きるのは決してネガティブで、妥協しているわけじゃないってこと。

たしかに、このままでいいのかなって迷うことはあるんだけど、それでもそれを楽しく、前向きに捉えられるのよ、みんな。

そう。それをネガティブに思わなくてもいいぐらいの、なに、なんだろ。なんかがあるんだよ。きっとそれはやり出したらわかる。

だから、矛盾で大丈夫だし、真っ白な社会を目指す必要はないし、社会をネガティブに思わなくても大丈夫。

矛盾のなか生きていこう!

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