答えは画面の向こう側にはない
最近はyoutubeで簡単に勉強できたり、知識を手に入れることができる。
ひろゆき氏やDaiGo氏など賢そうな人たちが発信した内容は、そこらへんのネットの記事よりも信憑性があるような気がして、内容を簡単に受け入れてしまう。
そのこと自体は別に悪いことだとは思わない。それで救われる人たちもいるのだから価値はあると思う。
ただ、よくスパチャで質問している人の中に、自分のことすらも他人に決めてもらおうとしているのがある。自分の進路や人間関係、お金の使い方など、どれも本当は正解なんてないはずなのに、偉くて優秀な人に決めてもらえば、自分の人生は良くなると過信しているような気がする。
どんなに賢い人間だって間違うことや失敗することはある。そして、他人の人生には無難な答えしか出すことができないように思う。その人にとっては切実な悩みなのかもしれないが、自分で考えることを放棄して他人が決めたレールに沿って人生を決断することは、果たして幸せな選択と言えるのだろうか。
また、人生は選択の連続であって、目の前の選択で正解したからと言って、次の選択肢も正しく判断できるとは限らない。選択に迫られるたびに、他人任せにするわけにもいかない。
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レイ・ブラッドベリの『華氏451度』を読んだ。
1953年に書かれたSF小説だ。
「本」を読むことが法律で禁止され世の中から排除され社会で、所持していれば昇火士(ファイヤーマン)によって燃やされてしまう。
誰もがテレビやラジオに釘付けで、何かに疑問を感じたり、考える暇がないくらいに忙しく過ごしている。大衆の心をつかむのは単純なもので、すべてが要約、概要、省略されたものだ。人々は常に快楽や快い刺激を求め、文化がそういうものを大量に提供してくれる。
まるで今の社会を風刺しているようで、これを70年も前に思い描いていることにとても驚いた。
僕らも暇さえあれば、常にネットにつながりいろんな記事を読んだり、動画を観たり、ゲームをしたり、誰かとつながっている。
それらは全くお金がかかることなく実現できる。
でも、それで人は幸福と言えるのだろうか…
世の中の事実や知識をめいっぱい詰め込んで、自分で考えているような気になっているだけかもしれない。人生というのはつかみどころがなくて、そんなことを真剣に考えていたら憂鬱になる。だから、簡単で分かりやすいものにすがってしまうのかもしれない。
手軽なもので自分を満たそうとしても心の穴は埋まらない。気晴らしをし続ける苦しさもあると思う。
去年の自分がそんな感じで、何をしても楽しくなくて、今まで好きだったこともわからなくなっていた時期があった。今もたいして変わらないけど、少しは楽になっている気がする。(やっぱり急に切なくなる時がある)
自分の人生なのだから、自分についてよく考えて、自分で決断したほうがいい。そして、「考える」という時間を意識的に作ることも大事だと思う。
気晴らしで埋め尽くしても、絶望は避けられない気がする。
目をそらしただけでは、現実から逃げたことにはならない。
まあ、自分と向き合い過ぎて、心をすり減らして病んでいる人たちもたくさんいるから、何事もほどほどにしたほうがいい。
誰しも自分の人生をよりよく生きたいと願っていると思う。それに向けて努力をしている人もたくさんいる。でも、答えは画面の向こうにはなくて、自分で導き出すものだと思う。
あと、画面の向こうにいる人たちは幸せそうに見えるけど、幸せそうなのと幸せなのは違う。ごちゃ混ぜにならないように気をつけたい。
いろんなものがスピーディーに過ぎ去り決断を迫られる社会だからこそ、ゆっくりじっくり向き合うことが大切になってくると思う。
決断は焦らなくても大丈夫だということ。そんなことを言いたいと思った。