#わたしの旅行記 高校生の時、写真の課題でクセ強な友達とふたりで三宅島に行った話
私には忘れられない夏の思い出がある。
長文になりますが、よかったらお付き合い下さい。
高校の三年間デザイン科で勉強していたのだが、確か二年生の夏休みの課題で写真があり『夏をテーマにした写真を撮り、一枚のボードにまとめて発表する』という感じだった。
学校からカメラを借りられたが、私は父親の全く使っていなかった古い一眼レフカメラを借りて授業を受けていた。
自分で撮ったフィルムを現像して、写真が浮かび上がった時の感動は今でも忘れられない。
ウチの高校はスパルタで一つでも課題を落とすと進級できず、山ほど色んな課題を短期間でヒィヒィ言いながらこなしたが、写真の授業は本当に楽しかった。
夏=海
私は海を課題の中心にしようと、迷わなかった。
なぜかというと、母親の実家が伊豆七島の三宅島なので幼少期は夏休みに三宅島へ行っていたからだ。母親自身は良い思い出が無いからとあまり行きたがらず、一人で祖父母家に泊まることが多かった。
おじいちゃん、おばあちゃんは本当に優しくて、両親から虐待をうけていた私にとっては安らぎのひと時だった。
三宅島の海岸は噴火によって海へなだれ込んだ溶岩が固まり、その溶岩を住処にする魚たちが集まり、割と浅瀬でも色んな魚が見られるのだ。
黒潮の影響もあり元々魚が多くいるのだが、この溶岩の地形と2000年の噴火で約五年間全島避難していたため自然がさらに豊かになり、伊豆七島の中でも三宅島はダイビングとバードウォッチングの名所となっている。
私はひとりで三宅島に行き、大好きな風景をカメラに収めたいと思っていた。
ところが、割と仲良くしていたクラスメイトのMが「一緒に行きたい」と言い出した。正直、Mとふたり旅行なんて、平穏には過ごせない気がして行きたくなかった。
Mは入学して早々、その態度と発言の強さからギャル系グループと揉めていた。
デザイン科だったので、同じクラスでも絵の上手い地味めなコ達と、ファッション関連を学びたいギャル系グループに分かれていた。
私は地味めな方だったが、中学の人間関係から解放されて一人で入学したし、壁を作らないで色んな人と仲良くしたいと思っていたので、ギャル系グループのコとも普通に話せていた。
Mが揉めていた時も「Mの態度ひどいけど、一緒にいて大変じゃないの?」みたいなことをギャルのコに聞かれたりしていたが、何故か私はMに気に入られていて、そこまでひどい扱いはされていなかったのだ。
だけど…
Mは中学から一緒のTと高校に入学してきたのだが、このふたりの関係性が「仲の良い友達」ではなく「主人と奴隷」のようだった。
そんな関係を傍で見ていた私は耐えられなくなり、ある日Tとふたりで帰ることがあり尋ねてみた。
「あのさ、前から気になってたんだけど、TはMのパシリみたいな扱いになってるけど、Tは嫌じゃなの?」
「…本当は嫌なんだ…」
「やっぱりそうだよね…Tが本当に困ってて嫌なら、あたしが間に入っても良ければなんとかするけど、どう?」
「うん…お願いしたい」
こうして、TのMから独立作戦を開始した。
Mはとても弁が立つので、話し合いでは到底無理だと思った私はMへ手紙を書いた。手紙は私の得意分野だ。
内容的には、Tは今のMとの関係を嫌がっていて、普通の友達関係になれれば付き合いは続けたいこと。傍から見ていてとても不愉快だということ。もし態度を改めないなら、私はMとの付き合いをスッパリやめる。私だけじゃなくて、Tも他の友達も同じ意見だということ。Tに今までの態度をキチンと謝って欲しいこと。あと、Mの良いところも書いた気がする。
便箋3、4枚にわたって書かれた手紙は、内容をTにチェックしてもらい、Mに渡した。
手紙を渡した次の日だったと思うが、早速MがTを呼び出したのだ。
想定内の行動だったので私はTに付き添い、Mと対峙した。
Mが怒りながら「これはどういうことなの?」と言ってきたので、「手紙に書いてある通りだよ」と答えると「二人の問題だから関係ないでしょ」とか、「Tは今までそんなこと一回も言って来なかった」とか、「Tは喜んでやってた」とか、次から次へと自分に都合が良い言い訳をしてきた。
それを聞き、さすがの私はブチ切れ「関係性が異常だし、見ててとても不愉快だし、何よりTがすごく嫌がっているんだから、友達と思うなら相手の嫌がることはやらないでしょ?」と捲し立てた。
私が普段怒ることはなかったので、Mは驚き、ようやく事の重大さに気付き、謝り始めた。
「謝るんならあたしじゃなくて、Tにして」と言い、話を終わらせた。
その後、TとM二人っきりか、私を入れた三人でか忘れてしまったのだが、MはTにきちんと謝り、TはMから解放された。
この出来事の後に写真課題があり、Mとはその後も仲良くしていたのだが、さすがに旅行となると話は別だろ?と内心思っていた。けれどMが「どうしてもkokyutoを被写体にしたい!」と言い出し、一緒に行くことになってしまったのだ。
おじいちゃんはすでに亡くなっていたのだが、おばあちゃんは元気だったので、友達とふたりで夏休みに写真を撮りに行くから泊まらせて。と連絡を取り、当日となった。
竹芝桟橋から東海汽船の大型客船で23時頃出発の船に乗ると、翌朝の5時頃には三宅島に着く。
当時の一番安いチケットは毛布を借りて雑魚寝スタイル。私は何回も経験しているから良いのだが、Mには行く前に散々注意しといた。
慣れていないとエンジン音と振動がうるさくて寝にくい事、海が荒れていると船がかなり揺れる事。
Mはそれでも良いと付いて来たのだが、それ以前にまさかの問題発生。
時期は混み合うお盆は避けていた。予約をしていたかどうかは忘れてしまったが、スムーズにチケットは取れた。だが、窓口の人が私たちの容姿を見て「学生証あれば学割にできますよ?」と聞いてくれ、私が鞄から学生証を取り出したとたん、Mが「ちょっとまって!学生証なんて持って来なかった!」と言い出したのだ。
一旦窓口から離れ、Mは財布や鞄の中をくまなく探すが、やはり学生証は無かった。Mが不機嫌になり始めた。
初っ端から勘弁してくれよぉ…
私の心は泣いていた。
「学割利くとはあたしだって知らなかったし、無いなら仕方ないんじゃない?」となだめるように言ってみたものの、納得できないMは「家に電話して持ってきてもらう!」と言い出した。
船の出発まで時間に余裕はあったものの、M宅から竹芝桟橋まではかなりの距離だ。正直無理なんじゃない?と思ったのだが、Mは公衆電話から自宅に電話をし(当時はポケベル全盛期)家族の誰かが車で届けてくれる。という事になった。
待ってる間、超気まずい。
あ~ぁ。やっぱり一人で来ればよかったな…。と思ったことは言うまでもない。
そんな空気を察したのか、Mが急に謝ってきた。
「付き合わせてしまって、ごめんなさい」と。
強気な性格のMは自分から謝ることがほとんど無いので、私は許した。
もう変えられない旅行だから、なるべく楽しく過ごしたい。
「もし間に合わなかったとしても、不機嫌になるのは止めてほしい。せっかくの旅行が台無しになるから」と言い、Mも納得した。
学生証は無事届き、ふたりとも学割料金で船に乗ることができた。
三宅島に到着し、久しぶりの祖父母家。
何より、元気そうなおばあちゃんの顔が見られてホッとした。
少し休んだ後、カメラを持って噴火跡地へMを案内した。
溶岩で埋もれてしまった生々しい姿の阿古小学校や、溶岩で黒々とした海岸と青い海、めがね岩…。
幼少期の記憶が甦り、どんどんシャッターを切っていく。
Mは想像以上の光景にビックリしていた。
さすがのMも人の家では大人しく、学生証事件以降は問題は起こさず、楽しい旅行となった。
何泊したか覚えていないのだが、割とゆったりとしたスケジュールだったと思う。
ある日の朝早くに目が覚め、Mも同じく起きたので海岸まで一緒に散歩しようと出掛けた時だった。
海岸に着くと、物凄く大量のイカが打ち上げられていたのだ!
そこら中にまだちょっと生きてる、イカ!イカ!イカ!
いつも見ていた海岸。
こんな事、今まで一度も見たことない。
「なにこれぇぇぇ!!」
とふたりでテンション爆上がり、眠気なんてすっかり飛んで行ってしまった。
謎を解明すべく、私はイカを素手で数匹つかみ取りし、持って帰った。
おばあちゃんに事情を説明し、このイカは食べられるのか?何でこんなことが起こっているのか?聞いたら、知り合いの漁師に聞いてみると。
その日のお昼頃には謎が解明した。
おそらく、なかなか無いことだけど、イカの群れが大きな魚に追われて海岸に打ち上げられてしまったんだろう…と。そしてイカの種類はスルメイカ。だから食べても大丈夫と。
イカは私が捌いて、刺身やバター焼きにして皆で美味しくいただいた(笑)
そんな、ナニコレ珍百景みたいな体験もあり、美味しい魚を食べまくり、写真も撮りまくり、無事に旅行から帰って来た。
自分の写真課題の出来上がりは正直あまり覚えていないのだが、Mの出来上がりはなんとなく覚えている。
私がしゃがみながら、めっちゃ笑顔で正面を向いている。
しかも両手にイカを持ちながら、めっちゃ笑顔の白黒写真。
シュールすぎる状況だけど、それがまぁ本当に良く撮れていた。
Mの尊敬していたところは、私とは違うデザインセンス、絵の上手さ、頭の回転の速さ、そして歌がめちゃめちゃ上手かった。globeの曲を原キーのままブレずに歌える。今まで色んな人とカラオケに行ったが、私の中でトップ5に入る上手さだと今でも思う。
そんなM。Tとの関係性はT自身の断れない性格も改善された為、すぐに改められたが、その強気な性格はすぐには直らない。人の性格はそう簡単には変えられないという事をMを通じて教わった。
三年間、クラス替えが無かったのもあり、その後もMに振り回される大きな出来事が三回はあった。だけど逆に助けてもらったこともある。
それについては、また気が向いたらnoteに書きたいと思う。