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刊行1周年記念 横道誠 × 村中直人『海球小説』冒頭部分公開

発達障害の当事者が書いた小説と、臨床心理士による解説文が交互に展開する。刊行から1年を記念して、このユニークな書籍の冒頭部分を公開いたします。

物語の主人公は、「なんとなく周囲に溶けこめない」と感じながら学校での毎日を送る一人の少年です。実は、本書はある思考実験に依拠して書かれています。本書の舞台となる「海球」は、私たちの暮らす地球とはある点において大きく異なります。人々の「多数派」と「少数派」が入れ替わっているのです。この仕掛けによって本書は、「障害」は個人でなく社会の中にあるとみなす「障害の社会モデル」の考え方を、じっくりと、体感的に知ることができる書籍となっています。

ぜひ主人公と一緒に、この物語の世界を経験してみてください。発達障害とは何かということが、きっと見えてくるはずです。


「なあ、ちゃんとできてる?」とセイゴがミノルに尋ねる。あくびが出そうになっていたミノルは、あわてて意識を戻して、セイゴの顔を見つめ、にっこりと笑う。先週から新たに学びだした言語に夢中になっているセイゴは、「あ」と「は」の中間音をちゃんと発音できているかが気になって、ミノルに確認を求めたのだ。ミノルはセイゴの眼をじっと見て、「うん、すごくうまいと思うよ」と保証する。

「オレのはどうだ」と、今度はヤマトから話しかけられる。ヤマトはミノルに向かって、「カ」や「ク」や「コ」と発音してみせるが、ミノルにはそれぞれの音が濁っているように、つまり「ガ」や「グ」や「ゴ」と聞こえる。それでもミノルは笑顔を絶やさずに、「すごくいいと思う。ぼくにはできそうもないよ」と言って、ヤマトに笑いかける。

「探究」の時間は、いつもこんな具合だ。ミノルはいろんなクラスメイトにつきあわされて、ある意味では「モテる」。じぶんが好きなものをなんでも探究して良いというこの時間、クラスメイトたちはよく、いろんな外国語を身につけるために練習に耽っている。外国語が好きな子たちは、とても熱心にやっている。しかしミノルにはどうも外国語学習はピンとこなかった。翻訳ソフトや通訳ソフトが発展して、外国語を学ばなくても外国人同士が充分に意思疎通ができるようになった現代に、なぜ苦労して外国語を一から学ばなくてはならないのだろうか。発音を練習し、単語を暗記し、文法の構造を頭のなかで整理し、文章を解釈し、外国語を母国語に訳してみる。ミノルにはむしろ退屈に感じられてならない。担当のイズミ先生は、ある言語の音が優雅だとか、文字がオシャレだとか、文法がかっこいいとか口にするけれど、そういうこともミノルにはピンとこない。

 この「探究」の時間、人気があるのは必ずしも言語の学習ばかりではない。「おい、ミイ、このバッタかっこいいだろ?」と言って、ユウがミノルに図鑑を見せてくる。ミノルが笑顔を作って、広げられた図鑑に身を乗りだすと、見開きのページには外国産の色彩豊かな昆虫たちの写真が並んでいる。バッタ、カナブン、チョウ、トンボ。緑、黄、赤、青、茶、灰と賑やかに色が乱舞している。これでもかと言わんばかりの派手な配色、自然界の神秘。

 ミノルがどう感想を述べようかと悩んでいると、横からリョウが図鑑を凝視して、「僕はこれが好きだな」と叫んで、雄渾なアゴを持つクワガタムシを一所懸命に指さしてきた。ユウとリョウはたちまち意気投合して、図鑑のほかのページをめくって、好き嫌いについて熱心に語りはじめる。

 ミノルも何年か前までは、友だちと昆虫採集に行ったり、捕まえてきたカブトムシやカマキリを飼育したりしたことはあった。でも、一〇歳になる頃には、昆虫のたぐいに興味をなくしてしまって、一五歳の現在に至る。他方で、同い年のクラスメイトたちのあいだでは、とくに男の子のあいだでは、昆虫はあいかわらず興奮を巻きおこしやすいものなのだ。

「探究の時間」で困るのは、ミノルは耳にちょっとした問題を抱えているということだ。教室内のあちこちから聞こえてくるさまざまな音を、ミノルの耳は間断なく拾いあげてしまう。ほかのクラスメイトの聴覚はもっと寛容で、ほどほどに聞くということができている。ミノルはいつだって、音となって届けられるクラスメイトの語りの熱量に圧倒されてしまう。聴覚が過敏なのだ。

 ミノルもいちおう、机の上にスポーツに関する図鑑を置いて、バスケットボールを写真つきで解説しているページを開いている。しかし、こういうものは本で読むよりもじぶんで実際にやってみるほうが何倍も楽しいのはもちろんのことだ。だからページをめくる手は止まってしまって、まわりをきょろきょろと眺めてしまう。そうすると、クラスメイトの誰かから話しかけられて、その子自身の世界に引きいれられそうになってしまうのだ。

 まわりに気を遣いながら過ごすミノルの「探究」の時間は、いつもじりじりと遅く過ぎていく。早く授業が終わらないかな、とミノルは頭の片隅で願いながらも、まわりの友人たちに話を合わせている。

 
 やがてキーンコーン、カーンコーンという鐘の音が鳴って、授業が終わる時刻を知らせてくれる。今度はホームルームの時間だ。イズミ先生が出ていき、タキザワ先生が入ってくる。そして、きょうは変わったことがなかったかを生徒たちに向かって確認する。そのあと、あしたから三者面談が始まるから、親子揃って忘れずに参加するようにと注意喚起を受ける。

 タキザワ先生は異常なほど整然と話すのだが、それがミノルはなんとなく苦手だ。つぎからつぎへとそのものズバリの情報がタキザワ先生の口から発語されていくので、ミノルはそれを必死で追いかけなければならない。みんなが問題なく飲みこめているのが不思議に感じられる。そんなだから、先生が話しおわっても、ミノルは頭がぼおっとしている。六年前に担任だった先生にもそのような印象を抱いていたことを思いだす。「純度」が高すぎる話し方で、じぶんには向いていない、とミノルは感じる。

 先生が話を終えて「ではきょうはこれで解散。気をつけて帰宅するように」と言うやいなや、うしろの席のシンが、すっと近寄ってきて、ミノルに言った。
「きょうもぼくんち来るよね?」
 ミノルは噴きだしそうになる。「きょうも」というのは、きのうもおとといも、シンのうちに行ったからだ。とくにきのうはクラスメイトが六人も集まって、オンラインゲームの『アルティメットクエスチョン5』をみんなでプレイした。オンラインゲームなのだから、それぞれの家でバラバラにプレイしても良さそうだが、シンは集まってやったら興奮度が違うと言っている。その感じ方は、ミノルにもよくわかる。

「もちろん!」とミノルは答える。ミノルにとって『アルティメットクエスチョン5』は、ほんとうは好みのど真ん中の作風ではないのだけれど、シンはこのゲームに夢中だから、ミノルはその熱意に水を差さないように言動を慎重に選ぶ。そうすることで、シンは心底満足そうに眼を細めるから、ミノルはその顔つきを見るだけで、とてもうれしくなるのだ。シンと教室を出ようとすると、タキザワ先生から「あしたは時間どおりにね」と声をかけられた。
 

 ミノルはついつい、クラスメイトより歩くペースが速くなる。一緒に下校する友だちがミノルを追いかけるようにして歩いているなと気づくと、ミノルはあわてて速度を落とす。シンとは気が合う場面が多いと思うのだけれど、歩く速度はやはりチグハグだ。シンのように落ちついて歩くことは、ミノルには難しい。歩きながら見せる視線の動きや言葉の操り方にしても、ミノルはシンほど落ちついていない。シンはほとんど無言でいて、青い空を見あげたり、彼方に横たわる緑の山の稜線を眼で追うのだが、その動きには起伏が控えめで、じつになだらかだ。どこかで小鳥たちが一斉に羽ばたくと、そちらに気持ちを奪われるけれど、すぐにまた青い空や緑の稜線に心は帰っていく。

 そんなシンの悠然としたそぶりは、ミノルにはどうしても耐えられないものがあって、挙動不審になってしまいそうになる。シンが黙っていると、つい話しかけてしまう。ミノルは視線の動きにしても、どことなくせわしなく、さまざまな音や色や形に反応して、注意があちらこちらへと向く。ミノルはシンに向かって言う。
「ねえ、タキザワ先生の話ってわかりにくくない?」
 シンは聞いているのかいないのか、あいかわらず視線を彼方に固定して、黙ったまま歩いている。ミノルは「ねえってば」と促す。シンは「うん?」と応える。
「タキザワ先生の話がわかりにくくない、って訊いた」
「タキザワ先生が? そうかな?」
「シンはそう思わないの?」
「うーん」とシンはしばらく黙りこむ。あいかわらず空や山を見つめたままだ。
「とくに違和感はないかなあ」 
 ミノルは「そうなんだ」と拍子抜けする。気が合うと感じるシンでも違和感を覚えないと言うんだったら、ほかのクラスメイトたちの返事は、ますます望み薄だ。タキザワ先生への違和感について思いを共有しあえる仲間がいないというのは、とても残念なことに思えた。

 ふたりの前方を、右からふいに自動車が走ってきて、横切りそうになる。ミノルはさっと距離を取る。シンはミノルよりも遅れてそうする。ミノルの運動神経はかなり良く、クラスの男子でもベスト3に入るだろう。ミノルの成績通知表では、体育と音楽だけがいちばん上の「5」だ。

 うしろでシンがよろけて倒れたけれど、怪我はどこにもなかった。ミノルは「大丈夫?」とすぐに声をかける。シンは黙って起きあがって、「うん」と呟き、また歩きだす。

 
 シンの部屋で『アルティメットクエスチョン5』を一緒に始めたのは良かったけれど、ミノルは一時間もしないうちに飽きてしまう。光や音の効果に規制が多くて、迫力を感じにくいのだ。シンはと言えば、飽きることなく夢中でのめりこんでいる。きのうは六人の友だちでやっていたけれど、じぶんだけ飽きてそわそわしてしまったことに疎外感を抱いた。きょうはふたりだけなので、まだそんなに心細い感じはしない。
「これ見ていい?」
 そう言ってミノルは本棚のマンガを指さす。シンは「うん」と生返事で応える。

 大量に並んでいるのは、『ダビげろん』という古い時代から国民的な人気を維持してきたユーモア漫画だ。未来の国からやってきたアライグマ型ロボットの「ダビげろん」が、能力が低くて、親や教師にはよく叱られ、クラスメイトからはいじめに遭いやすい主人公「矢場やば太」を未来のふしぎな道具で支えてくれるけれど、毎回たいていは残念な結果に終わってしまうという一話完結ものだ。

 ミノルはこの『ダビげろん』がとても好きだった。主人公のやば太がじぶんによく似ていると感じ、感情移入してしまうのだ。アニメ版も小さい頃は好きだったけれど、いまでは子どもっぽく感じて観ていない。それでも家にはマンガの単行本「かぶと虫コミックス」版を七割くらい揃えている。

 それにしても驚くべきはシンの本棚で、「かぶと虫コミックス」版、ずっと昔に絶版になって古本屋では価格が高騰している「MMランド」版、そして辞書のように分厚く何十冊もある「ダビげろん大全集」版が揃っている。ミノルが持っている「かぶと虫コミックス」版は、雑誌に掲載された話を精選したもので、「MMランド」版はまた別の精選版、そして大全集版は文字どおりすべての話を収録した完全な『ダビげろん』コレクションだ。ミノルはこの本棚を見るたびに圧倒される。

 ミノルがどれだけ『ダビげろん』を好きだと言っても、シンのこの情熱にはついていけないものがある、とミノルは感じる。ミノルの本棚では、もっとも普及した全四五巻の「かぶと虫コミックス」版ですら、歯抜けのようにしてあちこちの巻が欠けているのだ。そのような集め方の特徴はほかの本にも言えて、ミノルは小説のシリーズ作品にしても、じぶんがとくに気に入った巻だけを買っていく。シンの集め方は網羅的で徹底していて、シリーズものは完全に揃えないと気がすまない。そもそも蔵書の数だって、シンはミノルの何倍も多い。シンの本棚を観ていると、ミノルは宇宙を感じてしまいそうになる。じぶんの本棚は手入れされていない雑草だらけの草むらのようなものだけれど。

 ミノルは大全集版の一冊を取って床に座り、読んだことのない『ダビげろん』の話を楽しむことにした。そのあいだ、シンは『アルティメットクエスチョン5』をずっと夢中でやっている。きのうこの部屋に来ていたクラスメイトの一部は、きょうはオンラインでシンのプレイと連携し、共闘している。シンはすっかりのめりこんでいて、ゲーム世界の時空を全身でこよなく体験できている。本の収集にしてもゲームにしても、さらには「探究」の時間でも、学校でやるほかの勉強にしても、シンはそのようにして夢中になれるものを見つけては、じぶんを没入させてしまう。ミノルは、そのようなシンが心底うらやましい。そしてほかのクラスメイトも、みんなそんな感じなのだ。ミノルにはそんなに夢中になれることはない。得意なスポーツにしても、好きな音楽の時間にしても、無我夢中になってのめりこむというほどではないのだ。

 しばらくすると、シンの母親が部屋にやってきた。ミノルはさっと立ちあがって、ていねいに頭をさげて、「お邪魔しています」と挨拶する。シンの母親にとっては、ミノルのやり方は少し大袈裟に感じられるけれども、彼女は微笑みを浮かべて「ゆっくりしていってね」と優しく声をかける。ミノルは「ありがとうございます」と言って頭をさげて座る。

 
 帰宅したミノルは、居間で大きな液晶テレビの電源を入れた。チャンネルを合わせると、画面には、成人した男たちが息を弾ませて走っていく様子が、上空からのドローン撮影で映しだされている。生中継なのに昼間だから、外国のどこかでやっているとわかる。煌々とした画面が、窓の外に見える夜の闇と濃密なコントラストを形成している。

 ミノルはテレビ画面を眺めながら、じぶんもマラソンに挑戦してみようかなと考える。スポーツが得意なミノルだが、長距離走に向いているとはあまり思っていない。長い時間にわたって、手足の同じ動作を連続させるのは、飽きっぽいミノルには気疲れの溜め息が出そうになる運動形式だ。第一にバスケットボール、第二にバレーボールの選手になれるなら本望だけれど、学校の体育では、球技と言えば野球くらいで、好きなスポーツに関して話題を共有できるクラスメイトはいない。

 スポーツの王者として扱われ、絶大な人気を誇るマラソンの選手になれれば、億万長者になったようなものだけれど、学校で開催される一〇キロメートルを走るミニマラソン大会で、ミノルの成績は上位と中位のあいだくらいだ。ミノルよりずっとマラソンが苦手な生徒はたくさんいるし、自由参加形式なので、そもそも参加しない生徒もたくさんいる。参加者の多くはマラソンが得意な生徒たちで、それを考えれば、まずまずの成績と言える。それでもミノルが最上位陣と争えるようになるには、かなりの努力をした上で、運に恵まれなければいけないだろう。マラソンの上位陣は、ちょうどシンがコンピューターゲーム、小説やマンガの収集、好きな勉強に懸けるのと同じような熱量で、トレーニングに励んでいる者たちばかりだ。彼らと張りあっていく自信が、ミノルには湧いてこない。

 いまだって、マラソンの中継放送を観ているものの、それを何時間もじっと観つづけるのは、ミノルにとって苦痛だ。リモコンでチャンネルを替えてみる。夕方の時間帯で、アニメを放送している局が多い。アニメは朝も夕方も深夜もひっきりなしに放送されているけれど、ミノルはそんなに好みではない。観ていると、周囲のクラスメイトたちになんとなく溶けこめなくて、いつのまにかひとりぼっちになってしまっているような気がする、いつもの孤独感を思いだしてしまう。

 いつもどおり、バラエティ番組をやっているBSのテレビ局を選ぶ。『宇宙の果てまで帰ってQ』だ。このタイプの番組はアニメとは正反対で、世間でもクラスでもほとんど人気がなく、いかにも衛星放送向けのマニアックな番組ではあるのだけれど、ミノルは好んでいる。登場してくる芸能人たちは、しゃべり方といい、身振り手振りといい、ミノルの身近にいる人たちとはずいぶん印象が異なっていて、不思議な親近感のようなものを抱く。こういうバラエティ番組について気軽に会話できる友だちがいたら良いなと思う。

 
 母は先ほどから熱心に手芸に打ちこんでいる。何かと自作するのを好む、いわゆるDIYマインドに富んだ人なのだ。料理はそんなに好まないけれど、その代わり週末にやる日曜大工はセミプロ級の腕前だ。平日には裁縫、編み物、刺繡などを好んでいる。いまはこれからの季節に備えて、家族のぶんのマフラーを編んでいるところだ。心地良さそうに笑顔を浮かべながら、両手をリズミカルに動かして、編みつづけている。

 ミノルは母とふたりきりのとき、じっくり会話をしたいと思うこともあるけれど、彼女は趣味に没頭しているときがいちばん幸せだと知っているから、じぶんの都合で煩わせたりはしない。小さい頃は、なかなかその境地に行けずに、苦しんだ。ミノルは母からの愛情をたくさん得ようとして、よく泣いて母も父も困らせる子どもだったのだ。そのことを思いだすと、いまのミノルはなんだか照れてしまう。

 きょうミノルがシンの家から帰ってきたとき、母はもう夕食を食べおわって、手芸に夢中になっていた。ミノルの母は、じぶんの欲求に対して心から正直な人なのだ。ミノルはテレビ画面から離れて台所に行き、作られていたカレーライスをじぶんでよそうことにした。炊飯器からほかほかの米飯をしゃもじですくって皿に載せ、鍋からあつあつのカレーをおたまですくって、ごはんの上にかける。居間に戻ってきて、皿をテーブルの上に置き、ミノルはあぐらをかいて座り、食べる。父は早くに帰宅して、母と食事をしてからどこかに出ていった。父は家でじっとしていると、ストレスを感じやすいようだ。ミノルはみんなで食べられたら楽しいのにと思っているけれど、父や母は無頓着だ。けっして家族仲が悪いというわけではない。それはミノルもわかっているから、不満を言わないように心がけている。

 しかし、あしたの放課後には学校で三者面談がある。それを母に言って、思いだしてもらう必要があった。
「あしたの三者面談のことだけどね」
 母は「うん?」と生返事をして、手芸を止めようとはしない。ミノルは話しつづける。
「朝のホームルームで、大事な話になるから、必ず来てほしいってタキザワ先生が言ってた」
 母は「そう。わかった」とまた生返事をする。

 ほんとうに大丈夫だろうか。去年も担任はタキザワ先生だったのだけれど、あのときは母が在宅でやっているテレワークに熱中して、三者面談に来られなくなってしまったのだった。

 
 そんな母だけれど、そしていまもミノルの発言に関心が薄そうに話しているけれど、じつは彼女には彼女なりにミノルに関して不安に思っていることがあった。ミノルの母はしばらく前から、インターネットで「発達障害」や「注意欠陥・多動性障害」という言葉をよく検索して、それがどのようなものかを調べるようになっていたのだ。なんでも買えると評判のオンライン書店で関連書籍も買っている。書籍を本棚に置くと、ミノルが読んで不安になる可能性もあるから、電子書籍を選んでいた。

 つまり、ミノルから見ると自由気ままに見える母でも、本人は子どもの現状と将来を心配して、折に触れて情報を収集しているのだ。子どもの教育には気を遣ってきたつもりなのだけれど、小さい頃から、どうもミノルはほかの子どもとは違うのではないかと不安に感じる場面が多かった。しかも、一五歳という年齢は今後の進路にとって大きな分岐点になる年だから、母は母なりに、あしたの三者面談には緊張感を抱いていた。

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