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「消しゴム」の跡をたどって   鳥羽耕史

  ◆生の痕跡

 私が安部公房作品と出会ったのは中学生の頃だと思う。紀伊國屋書店新宿本店で、なぜか新刊でもない『壁』が面陳になっていたように記憶している。それまで愛読していた小松左京などのSFとも違う世界にはまり、『終りし道の標べに』などの新潮文庫を次々と読んでいった。『方舟さくら丸』が出たのが高校一年の一一月で、やはり紀伊國屋書店で開かれたサイン会のために学校をサボるか真剣に悩んだ末サイン会を断念したことを覚えている。北海道大学に進学し、卒業論文では公房のノート形式の小説を論じた。しかしデビュー作が入手できないので、手紙を書いて複写許諾をもらった顚末は、本書の「あとがき」に書いた通りである。一回限りの手紙のやりとりの後、生身の公房に会うことのないまま訃報に接した。
 私小説を嫌った安部公房は、自己を語る小説を残さなかった。それだけでなく、雑文を書かないことをモットーにし、身辺雑記の類も少ない。そんな公房の生涯を追うのは大変な仕事だった。大きな助けになったのは、娘の安部ねりがコロンビア大学に寄贈した全集編纂資料が、安部公房コレクションとして公開されていたことだ。各地方紙に配信されたコラムなどのコピーが集められており、新聞によるバージョンの違い、『砂漠の思想』をはじめとするエッセイ集に収録されたバージョンとの違いなどを確かめることができた。以前から、一九六〇年代に『終りし道の標べに』と『夢の逃亡』を出した際の改稿が公房を読み解く鍵になる、という直感を持っていたが、この二冊以外の新聞などのコラム類まで、細かな加筆修正を加えていたのを確かめられたことで、「消しゴムで書く」作家という捉え方が正しいとわかってきた。
 全集には収録されなかったニッカウヰスキーの広告文案や、ドナルド・キーン宛書簡コレクションでの公房や三島由紀夫の書簡も見ていくうち、公房の姿が立体的になってきた。特に、ソ連軍のプラハ侵攻によってチェコに亡命する夢が破れて悲しいと公房が語ったというキーン宛の三島の書簡内容は、公房におけるチェコの大きさを実感させる。

  ◆未完の構想から見えるもの

 初期の難解な小説から「デンドロカカリヤ」以降の変身譚への転換を指して、本多秋五が公房を「変貌の作家」と呼んだことは有名だ。『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』、そしてこの夏に映画が公開される『箱男』など、代表作とされる小説はさまざまな失踪を描いている。こうした名作の陰には、実現されなかった数多くの構想がある。
 一九五〇年代には『死者の町』と題して、幽霊物語を一冊にまとめる予定だった。松川事件を取材して、『不良少年』という映画も構想していた。『零の闘い』か『氾濫の季節』という題で冒険小説を書く腹案もあり、富士山の裾野での基地反対運動に関わって『富士山のジャンヌ』を書く計画もあった。これらのアイディアを見ていくと、私たちが知っている安部公房とは違う顔が見えてくる。
 一九六〇年代には旧作の改稿、一九七〇年代には戯曲の改訂と演劇の演出に力を注ぎ、公房は未完の構想を語らなくなった。そして、一九八〇年代以降、くりかえし語った小説『スプーン曲げの少年』や、『アメリカ論』の構想も実現せず、前者はようやく没後に『飛ぶ男』として出版された。
 早稲田大学大学院に入った頃、指導教授の故・竹盛天雄先生は、思想ばかりが語られる公房の実生活を追うような「汚れ仕事」を誰かがやらなければならないとおっしゃったことがある。その時は他人事のように聞いていたものだが、まさにその「汚れ仕事」を終えた今、新しい安部公房像を描くことができたような気がしている。それは生身の公房を知らないからこそできた蛮勇だったようにも思う。
(『ミネルヴァ通信「究」』2024年9月号)

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