エッセイ【夜の東京】
エッセイ【夜の東京】 峯岸 よぞら
今日、夜の東京を散歩した。
私は旧友のAさんと雨に降られながら、
市ヶ谷から東京ドームシティまでの遊歩道を、
並んで歩いた。
私は、夜に散歩するのが久しぶりだった。
何年も前は、飲み会の後に、終電を逃して
東京を散歩したりしたことがあった。
しかし、今回はその時とは違う。
一つはお酒が入っていないこと。
もう一つは、風情を感じ?られたこと…。
お酒が入っていた時は、頭が回っておらず、
友人たちと身内ノリで大笑いしながら歩いたものだ。
それはそれで青春だった。
歩いても歩いても大きなビルで
覆いつくされていた記憶ならある。
しかし、今日は違った。
遊歩道には木々があり、ビルから少し離れていた。
奇しくも、私は遊びに行く前に
「国木田独歩」について勉強していた。
日本では、春の桜、秋のススキ、冬の雪景色、
それらが自然の美しさとされていたが、
国木田独歩が日本で初めて、
夏の緑が生い茂る様子も美しいと
『武蔵野』という作品で発表したのだ。
特別なものが無くても、
ただ木に緑の葉が着いて光が差した様子の美しさを、詩的に話し言葉で表現した。
私は、夜だが、木々の美しさを感じようとした。
雨が降っていたが、集中して緑を見つめていた。
気温は、秋を匂わせるように肌寒い。
しかし、リュックを背負っていた背中には、汗が滴る。
熱帯夜のような夜でなかったことは幸いだ。
Aさんとは、たわいない会話をしていて、
大きな口を開けて笑うことはせず、
落ち着いた雰囲気で歩いた。
もうあの時の若いノリはない。
自分が歳を重ね、落ち着けたことに安堵する。
ただ、緑は不気味にしか見えなかった。
雨で重たくなっている葉が、こちらに向いている。
その葉の周りに覆いかぶさる湿気が、
不気味さを増しているのかもしれない。
刺々しい葉の形は、晴れていたら
もう少し丸く見えたのかもしれない。
全てを雨のせいにして、街灯を見た。
灯りに照らされて、雨の粒が見え、
粒が少し大きいことが分かった。
折り畳み傘を差すタイミングを計る。
私はすぐに雨にマケ、傘を差した。
ただAさんは、「このくらいなら差さない」と、
意地を張っていた。
結局緑の良さは感じられなかったが、一つだけ発見があった。
東京散歩は不思議だということ。
普段なら、並んでいるビル自体、窮屈にしか思えない都会も、
散歩にするとそのビルを目で楽しむことが出来る。
あれは何ていうビルだとか、
こんなところに丸亀製麺が入っているんだとか。
遠くから見る夜の東京は、
ネオンでいっぱいのイメージだが、
近くで見るには暗すぎる気がした。
もし、国木田独歩が、現在の夜の東京の中心を歩いても、
木々の自然の美しさを描写したのではないかと思う。
人間は、環境のせいにするだけでは何も変えられない。
視点を変えることをしない限り。
私はビルにしか焦点を当てることが出来なかった。
だから、国木田独歩のように
緑の美しさを感じることが出来なかったのだ。
反省をしながらも、今日の散歩に満足している自分がいる😊💖
(一緒に歩いてくれたAさんに感謝です✨)
最後に、私は人の話を聞く時によく頷くので、
Aさんに「カウンセラーみたい」と褒め?られた。
国木田独歩もだが、様々な文豪たちと
夜の散歩をしながら、話を聞いてみたいものだ。
噂話も本音もよく頷きながら、話を引き出してみたい。
10月の試験に向けて勉強しなさいと怒られそうだけど…。
Merci