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声の行方 音楽の不思議
この夏、私は奇妙礼太郎さんの声と歌を追いかけていた。
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奇妙さんのライブは今までも何度か行ったことがある。直近だと2年前の8月4日の磔磔のワンマンライブかな。それからしばらく行ってなかったけど何だかピンと来て7月のムジカのライブに行き、「昔の私の職場に奇妙さん来るやん!」と神戸のライブを申し込み、「夏に2回も行ったらもうええ加減ええやろ」と思ってたら磔磔のライブのゲストが木村充揮さんと有山じゅんじさんと知り、「それは生で目撃したい!」と行くことにした。
私は探究型オタク体質なので、自分が気に入ったもの、好きだと感じたもの、もう一度味わいたいと思ったものを確認するように何度も味わいたくなる。何度も繰り返して味わい匂いを嗅いでスーハーして至福を感じるというか、そんなタイプ。そしてライブを観る時、ステージに立つ人を「お前は何者なのか?」というまっすぐな目で観て、歌を聴いて、ひと口ひと口味わうように歌を感じるタイプ。観られる側からしたらちょっと怖い人だと思う。
9月6日のSOLAのライブで自分でもわからないくらいに刺さって泣いた曲があって、アレは一体何なのか? を感じた時、「奇妙さんは空っぽになって歌ってるんだ」と思った。
空っぽってバカにしたり悪い意味で言ってるんじゃなくて、自分の想いとか欲とか何もなくて、ただ空っぽになって自分を超えてその器として差し出して、歌そのものになっているような。だから聴く人の心の何かに届いて響くんじゃないかな。
これは私の勝手な好みの話でもあるのけど、想いが強い人の歌は、何か重くて押し付けがましく感じられる時がある。どんなに歌や演奏が上手くても私の中には何も入ってこないし、何なら逆に嫌な時さえある。奇妙さんはもちろん上手い。上手いんだけど、ただ歌が上手いとか声がいいだけではない何かがあって、それは何なんだろうと思っていたら、「それは空っぽだからだったのか!」と腑に落ちた。勝手な私の解釈ではあるけど。
ずいぶん前に私に、歌を託してくれた弁天太朗くんからこんなことを言われた。
「本気でやりたいなら河原乞食になれ」
言われた時に「怖っ!」って思った。何もかも捨てて手放しで私は歌えるんだろうか? とすぐに不安になって、できない気がした。「どうやったら河原乞食になれるの?」「自分が持てる限りの声を出せばいいのか?」とも考えて、そんなことを考えてる時点で私には無理な気がした。それからしばらく河原乞食のことは忘れてたけど、奇妙さんの歌う姿を見て「あれが河原乞食なんだ」とわかった。もちろん私が知らないだけで、そんな風に歌える人はもっとたくさん居るのだとは思う。私がたまたま「コレが河原乞食の姿か!」と圧巻されたのが奇妙さんだっただけで。
「ライブは裸を見せるようなものだ」とよく聞くけど、河原乞食は裸どころか何もない。何もないからこそ、私の中に歌そのものが入って来るんだなぁ。その歌が私の中にある何か、思い出とか感情とかそういう何かに突き刺さって響いて涙が溢れたのかもしれない。どんとの「おめでとう」を聴いて溢れた涙も、きっと同じように私の中に入って響いたからなんだろうなぁ。
単純にライブに足を運んでいただけではあるのだけど、「奇妙礼太郎の短期集中!歌の夏期講習」に通ったみたいに私は歌や声、音楽の不思議に取り憑かれていた。そして、これからは、それをどう自分にダウンロードしていくかだなぁと感じて、しばらくは自分に集中したいと思ってる。私は河原乞食になりたい。空っぽになって自分がなくなるように歌ってみたい。好きな歌を、その歌そのものになって歌いたい。
なかなか自分を突き抜けられないと悩んでいたけど、それは私が自分には突き抜けられないと思っていたからだ。今の私は突き抜けたい。その憧れや目標と、今の私には大きな隔たりがあったとしてもありたい姿は見えたなら、自分の制限を外せたなら、いつかできるかも知れない。
人の歌ばかり歌っているし、自分の歌に自信はないし、私を見て!歌を聴いて!ってなかなかなれないし…とグチャグチャ考えてるだけじゃ、そんなもん超えられないよ。そういうことを奇妙さんが歌う姿から感じとれた。空っぽって素晴らしい。
そういえば最近読んだ本のあとがきにも、空っぽについて書かれてた。
「文章を書いて、自分がからっぽだ、って思わなかったら嘘だよ」
からっぽだと自覚するところから文章は始まる。
それで正しいよ。
そう言ってくださった気がしたのです。
「自分はからっぽ」ということは、今自分が手にしているものは一つ残らず誰からかもらったものだ、ということです。他者からの贈与が、自分の中に蓄積されていったということです。
ですから、僕はゼロからこの本を書いたわけではもちろんありません。僕が幸運にして受け取ることができたものを、メッセンジャーとしてあなたにつなぐために書き上げたテキスト。それが本書です。
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昔の私は「何にもない私からコレ以上奪っていかないで」と悲しんでいた。握った手を離せなくて何かにすがって執着してた。その手を離して、空っぽなら堂々と空っぽになって生きよう。今あるものを大切に歌おう。空っぽな自分に誇りをもとう。
最後に磔磔で奇妙さんが感銘を受けた木村充揮さんが歌う優歌団の「パチンコ」を。
途中、歌の着地点がわからなくなって咳払いした後の歌の破壊力というか、凄みを感じた。恐らくこれは奇妙さんが感じた河原乞食の凄さで、それが音楽の中で引き継がれているんだろうな。その歌が私に届いた。
そして私もいつか、そんな風に届けられるように歌い続けよう。
音楽って不思議だな。
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