時空を超えて届くもの
3年前に書いたnoteが評価されていたので、「私はいったい何を書いたんだ?」と読んでみたら驚いた。
私はこの時のことを違った言葉で記憶していた。責任者から「吉田さんは好きなことしかできない人だから…。音楽でやってみようとは思わないの?」と言われたと記憶していた。この言葉も確かに言われた。その時に口には出さなかったけど「プロのミュージシャンも活動できない今の状態で、どうやって挑戦すんねんっ!」と内心イラッとした。私が職場で歌や音楽を評価されてる感覚はなかったので解雇の言い訳だと感じていたし、元職場の人から私がやりたいことがあるから辞めたって聞いたと言われて余計にモヤモヤしていた。
しかしながら、今まったく同じように安静にしている中で「吉田さんは本当にやりたいことをして無いから体調を崩すんじゃないかと思う。人生なんてあっという間なんだから熱意を持って出来ることをやる方がいい」と言われた、その言葉や想いの中には愛もあったんだと思い知った。もちろん100%私を想ってかどうかはわからない。休んだことで職場の皆さんにご迷惑をかけたのだろうから解雇が相当だという判断もあったとは思う。でも、その中にも確かに愛があったんだなぁと改めて知った。
しかし読み返すと同じことをしてるな。
・文章を書く
・歌う
・料理作る
この3つは何があっても絶対にやるんやな…。
あと掃除は苦手なはずが、できる範囲で掃除を始める。そこで出てきた紙があった。
「なまけ者の悟り方」という本から抜粋してコピーされたもの。
私が京都に住んでいた頃に知り合った今泉郁子さんからいただいたもの。今泉さんとは寺町商店街のギャラリーで出会った。ギャラリーの窓から虹色の織物が見えて、気になってギャラリーに入ったら作者の今泉さんもそこに居た。
私は昔から虹が好きだった。とにかく不思議だから。可視光線という理屈はわかるけどやっぱり不思議だった。何だかすごく惹かれてしまう。その時にちょうどrainbow projectという企画書を書いて実現しようとしていた。
その頃の私は神戸の会社で働いていたのを辞めて京都で一人暮らしを始めた時だった。神戸の会社は社会保険や福利厚生がしっかりあり、体調悪い時は電話連絡で休むことができ、自分に無理なく働いていたはずなのに、当時の私の体調は悪かった。過呼吸になりがちで、電車の通勤中に過呼吸起こして倒れそうになり、途中下車して休んでから出勤することもあった。寝る前にも呼吸が乱れて死ぬんじゃないかと思う時もあった。
ある日やはり通勤中に過呼吸になり、本当に倒れるかもしれない…と思った時に、「どうせ倒れるなら、本当にしたいことをして死にたい」と思った。「じゃあ、私が本当にしたいことって何?」と思い浮かべて書いたのが、その「rainbow project」だった。今だから言うけど、正気の状態で書いた企画書ではない。でも、本当に倒れてしまう前にやってみたい!と真剣に思って書いた。ライブやイベントの企画なんてしたことない素人が、自分の希望だけで、自分が生きやすい世界を作りたくて書いた企画書。書いていたら、何だかめちゃくちゃ元気になっていった。そしてどうなるかわからないけど、やってみたいからと会社を辞めて、当時の貯金を叩いて京都に引越した。そのイベントは京都大学西部講堂でやりたかったから、西部講堂の近くの出町柳のアパートに住んだ。
そんな頃に今泉郁子さんに出会った。虹の織物は繊細で美しくてすっかり見惚れていたら、若い人に興味を持たれるのが珍しくて嬉しいと喜んでくださった。芳名帳に名前を書くと、私が住んでいたアパートのお近くにお住まいだったようで、名刺をくださり「気軽に遊びに来てください」と言われた。
京都人のその言葉を間に受けていいのか迷ったが、素直に間に受けてみようと、ある日電話で確認の上お宅にお邪魔させていただいた。おひとり暮らしの素朴な家だった。郁子さんはいろいろお話ししてくださり、私の話もたくさん聞いてくださった。
たまたま私の「rainbow project」の企画書を見た方から連絡があり、虹の作品を集めたグループ展をやりませんか? と提案された際に今泉さんの作品を推薦して企画展を行うことにもなった。
あろうことか私のミスで、今泉郁子さんの名前を平泉郁子と表記してしまい、今泉さん本人から指摘されるまでまったく気づいてなかった。DMの名前は1番間違えたらアカンやつ。そんなミスをした自分にビックリしたが、今泉さんは笑って許してくださった。
その後も交流は続き、その中で、あの紙を手渡してくださった。最初は「なまけ者のさとり方」の本を貸してくださったが、私が読めなかったので「大事なところを抜粋してあげましょう」とコピーを渡してくれた。当時は読んでも、まったく意味がわからなかった。
私が西表島に行く際には「沖縄に行くなら、ちゃんと沖縄の歴史を知って行かないといけません」とオススメの本を教えてくださったり、西表島に住む私にハガキを送ってくださったこともある。
いつからかお互いに連絡が途絶えていた。私は自分の中にあるズルい部分で今泉さんに接していた気がして後ろめたさを感じていた。
「よわいちからで生きる」「よわいままで生きる」と先日から書いているが、実はよくない弱さというのもある。自分を卑下して自己憐憫するように弱さをアピールして、人から同情してもらうとか優しくしてもらおうとする、人から何かをもらおうとする感じの依存的な弱さだ。それはたぶん弱さじゃなくて厚かましさなんだと思う。そういう感じで、私は今泉さんに接していた気がする。対等にではなく、優しさをや何かをもらいたい感じを無意識に出してた気がしてならない。だから何か後ろめたさもあった。
改めていただいた「なまけ者のさとり方」の抜粋コピーを見て、今泉さんが伝えたかったことがやっとわかった。ずっと意味がわからなかった言葉が理解できた。それを伝えてくれていたのか! と認識できた。
そしてきっと、当時の私が今泉さんから何かをもらおうとするズルい弱さで接していたこともわかった上で交流してくださっていたのも理解できた。
今もご存命かはわからないけれど、言葉にすれば何か届く気がする。「なまけ者のさとり方」がそういう本だから。
今やっと、今泉さんが手渡してくださったその宝石に気づけた。いつか私もそんな素敵なことができる人になりたい。届くかどうかはわからないけれど、その気持ちを忘れずに記しておこう。