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すぐに見えないことこそ大切に
最近、毎日動き回る生活をしているからか、何だか言葉が出てこない。毎日毎瞬、いろんなことが起きて、いろんなことをその都度感じて、「あぁ、この事を言葉にしてみたい!」と思っても、ゆっくり味わって言葉にする暇もなく過ぎてゆく。それはしあわせなことでもあり、何かちょっと寂しいことでもある。
たくさん思いの丈を書いていた時は、時間があって、その時に感じたことをゆっくり味わって伝えたくなっていた。今はその瞬間瞬間で味わい切って終わってしまう。そんな風に人は変化するんだな。だけど、その中でも忘れたくないことはあって、せめてそれは言葉にしていきたい。
最近、人や物事を立体的に見られるようになってきた。以前は表面でしか見ることができなかった。人気ある人やモテる人、華がある人、しあわせそうな人は、何の苦労もなく恵まれているんだなどと若い頃は思っていた。だけど、歳をとったからか、いろんな人に会ってきたからか、少しずつ人の奥行きが見られるようになってきた。表面的には恵まれたしあわせそうな人が、実はたくさん苦労をしてきたこと。表面的に見てモテて人気がある人が、実はモテて人気があるからこそ相手を傷つけないようにしながら本音や本当の自分を出せない気苦労や悲しみがあること。私は何も知らなかったんだなぁと思う。
たまに「峰ちゃんは苦労してないからだ!」とか「何にも汚いことなんて知らない顔しやがって!」とか「お前みたいなバカにわかるか!」みたいなことを言われたりしてきたんだけど、「そうかも知れないな」とやっと理解した。確かに私は苦労してないかも知れないし、自分に厳しいようで甘々やった。実はめちゃくちゃ恵まれて今日まで生きてきたのかも知れない。そして、そんな風に苦労なく恵まれて生きてきたことは当たり前なんかじゃなくて、私の力だけではなく、周りが支えてくれだからこそ成り立ってきたんやな。目に見える形や、目に見えない形で。
職場で意地悪やしキツいなぁと思っていた人と最近よく話す。その人はシングルファザーで大切にお子さんを育てている。子どもの頃に親が料理をしてくれなかったから、お子さんにはしっかり教えてること、両膝を痛めてて、事故で膵臓をダメにしたとことなどを話してくれて、「自分は死にかけたし、そんなに長くないと思うから、毎日を悔いなく楽しんで生きることや、子どもに伝えられることは伝えたい」と言っていた。介護の現場で働き始めてから今までいろんな人を見てきて、大丈夫だろうと思っていたら目の前で転んで血だらけになった人もいたからキツめの言葉で注意してると語っていた。そんな背景を知らず、「あの人、意地悪やなぁ。キツいなぁ。」で済まそうとしてたのか、私は。
人って、すぐには理解できないし、やっぱり関わることでしか見えて来ない。「もうええわ!」と心のシャッターを閉める前にあと一歩踏み込んでいけるようになってきた。人と関わることが苦手で、深いコミュニケーションから逃げてきた私は「どうせわからへん」「理解してもらわれへんし、理解できひん」が前提になっていた。その前提を「相手に迷惑かな?」といういい人ぶったラッピングをしたポーズやスタンスをとる癖に「自分をわかってほしい」という想いが強い拗れたコミュニケーションばかりをしてきた。めんどくさすぎる。でも、そんなだった私が、あと一歩諦めないで手を伸ばしたり踏み出したりできるようになったとはね。
忙しさの渦に巻き込まれて、というか自分でその渦に入ってしまったのだけど、その中でほぼ強制的に育まれていくコミュニケーション力。そこを鍛えながら人を観察して、今まで見えていなかったことを知る中で、ブレずに自分の本当の望みや大切な人や大切なことをしっかり見つめてたいなと思う。結局は自分なんやけど。
この経験を通して、何が見えてくるのか、今まで自分が目を逸らして見ないようにしていたり、受け入れて来なかったことが見えるのか。それはすぐにわからへん。そんなわからないことを投げ出さずにしっかり見つめていたい。
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