南インドのティルヴァンナーマライへ瞑想の旅
去年の11月にフルタイムの仕事(広告エージェンシーのPR部署のマネージャー職でした)を辞めたタイミングで、ヨガインストラクターで長年の友人の年に2回のインド詣でに便乗して、17日間のインドの旅に行って来ました。
インドに行くのは実に20年以上ぶりで2回目。今回訪れたのは、チェンナイ(旧マドラス)空港から車で4時間弱のティルヴァンナーマライという街と南インドの西海岸のゴア。どちらの都市も初めてだったので、友人に任せっきりの旅。
インドの旅の目的
旅の一番の目的は、ティルヴァンナーマライに拠点を置いていたインドで最も有名な聖者のひとり、故ラマナ・ハナリシ師のアシュラムで瞑想をすること。友人から聞くまではマハリシ師のことも知らなかったのですが、予習のために本を読んだらとても興味深く、早くアシュラムに行きたい気持ちが抑えられないほどに...。
ティルヴァンナーマライについて
最初に訪れたティルヴァンナーマライは、チェンナイ空港から車で4時間。到着したのは夜の10時過ぎなのに空港から最初の2時間くらいまでの道筋は長距離バスで大渋滞で道にも人が溢れていて、さすが人口13億2,400万人の国!と驚いていたら、後で知ったのですが、その日はヒンドゥー教の年末で、実家に帰る人たちでごった返していたようです。
そのティルヴァンナーマライは、ヒンドゥー教の神様、シヴァに縁のある土地。聖地だけあって、お酒もお肉も一切禁止。最近では街もずいぶん綺麗になったようですが、道ばたは牛と犬の糞だらけだし、バイクとバスでごった返してるし、そこらじゅうゴミだらけだしで、滞在中はこれぞインドという光景と匂いを満喫しました(笑)。
それでも、聞いていた通り、南の人は温和で物乞いもしつこくは寄ってこないし、瞑想やヨガのリトリートで来ている欧米人(ロシア人とオーストラリア人多し)も結構いるせいか、可愛いパッケージのアーユルヴェーダ製品を扱っているお店や小洒落たヴェジタリアンのカフェなどもあり、とても過ごしやすかったです。
泊まっていたアシュラムの目の前のホテルの食堂を始め、どこで食べてもカレーが美味しく、毎日、アシュラムでメディテーションをして、アーユルヴェーダのトリートメントを受けて、カレーを食べているだけでとても充実した気分でした。
シュリ・ラマナ・アシュラム
私が毎日メディテーションで訪れていたアシュラムは、前述したように故ラマナ・マハルシ師が修行をしていた場所で、1950年にマハルシ師が亡くなった後は彼の遺志を継いでいる僧たちによって営まれています。
敷地内にはヒンドゥー教の神様を祭っているお堂もあり、修行僧達が日々のおつとめをしています。こちらのアシュラムは基本的に誰でも出入り自由。そして、敷地内は土足厳禁。メインの大きなお堂を始め、小さなメディテーションルームが2部屋、マハルシ師の残した言葉を編纂した本をスタッフが朗読してくれる部屋、本やグッズの売店、ガーデンなどで過ごします。ヨガやメディテーションを教えてくれるグルやインストラクターなどはいないので、自分の好きな時間にメディテーションルームにいって、他の人と静かに好きなだけ座るだけ。
数時間に一度僧侶による祈りの時間があるので、その時は一緒にお経を唱えたり、祭壇のまわりをグルグルと廻ることもできます。
宿泊施設や食堂、大きな牛小屋などもあって、日本の大きめなお寺くらいの広さと言えば分かりやすいかと。裏手にはマハルシ師が生涯を過ごしたアルナーチャラという標高800Mくらいの聖なる山があり、40分ほど登った山の中腹にある彼がこもって修行した洞窟で瞑想ができます。そこに行くと何とも言えない安らかな気持ちになり、私と友人は、毎朝、朝食前に裸足でそこまで行ってました。
ラマナ・マハルシ師の教え
ラマナ・マハルシ師は、一言で言うと、「自分の中に存在する純粋意識の自己(真我)を探求せよ。そこに人間の本性である幸福がある」という教えを繰り返し唱えていた人です(ざっくり)。思考を作り出す心も、体さえも”私”ではないということを理解し、「私とは誰か?」と問いかけ続けることによって真我を探求し、そのためには、メディテーションなどいくつかの方法を続けることも手助けになると説いています。
いまだにカースト制度が根強く残るヒンドゥーの教えに反して、マハルシさんは生きとし生けるものはすべて平等という姿勢を取ったそうで、アシュラム内は犬や猿、クジャクなどが自由に駆け回っていて、何度も言うように、本当に心が安らぎました。
今回のインドの旅では、とにかく時間がたくさんあったので、自分を客観的に見つめる時間が多く持てたのと、マハルシ師が修行をしていたその場所で瞑想をできたことで、「真我を探求せよ」という彼の教えについてもちょっとだけ理解できるようになったのが大きな収穫でした。
マハルシ師はヒンドゥー教のお寺に祀られてはいますが、私が読んだ彼の対話本では全く宗教について触れているコメントはなく、どちらかというと、哲学的な感じで宗教を超えたユニバーサルな人間としての幸せについて語っているので、興味がある人はこちらの無料の日本語PDFを読んでみてください。
「写ルンです」で撮った写真でまとめてみました。