【無料】養魚秘録『海を拓く安戸池』(2)~志摩の国~
野網 和三郎 著
(2)~志摩の国~
大正十年四月、私は三重県志摩の水産学校に入学したのである。その当時としては漁村の子弟が中学校や商業学校等の上級学校へ行けるという者は数える程もなかった。それほど漁村の暮しには余裕がなかったということである。また漁師をするのに勉強などする必要はない、などといったことが習わしのようなものになり、たいていの場合、小学校を二、三年位しかやって貰えない、という者から初まり、小学校六年を終えるかまだ終らないままに、否応なしに親達は子供を沖へ連れ出し、漁を手伝わせ少しでも家計を楽にしてゆこうという子供達にとっては全く苛酷にも近い漁村のしきたりであった。そうした世情のさ中にあって日頃から遊び仲間である町方の五名程の者がそれぞれの上級学校へ進学してゆくということを聞かされ、胸につまるものを覚え、「わしも漁師の子なるが故にやっぱり取残されて行くのだなあ……」と思うと急に寂りょう感に打たれるようになりそれが次第に嵩じてくるとたまらなくなり次には「わしも学校へ行きたい」という欲望にかわり、いつの間にか「よし行ってやろう!」という決心を心底に植付けるようになってしまった。何とかして父にねだってみたいという決心を決めこんだ頃には冬休みも終りもう学年末にはいっていたのである。
兄達二人は高等科までしかやって貰っていない。自分だけが――という遠慮や世間体のことなども手伝って容易に切り出すことが出来なかった。もしやって貰えるのであれば漁師の学校、それは水産学校だと肚ではそう決めていたのであった。いつも親しく遊んでいる福島は大阪の商業学校へ行くんだ、とその親父さんから聞いていた。この親父さんは永らく町の役場に務めている立派な人で、子供同志の悪戯についてもほどほどの理解ももってくれ親しみ易い人柄で、私はいつもこの家へ寄りびたっていたのであった。そこでこの親父さんにどんな要領で父に話しかけたらよいのかとすがってみたのである。すると即座に「わしは漁師の子だから水産学校へ行きたいんだ」とそれだけでよい。お前の親父さんはきっとやってくれるよ。とこうであった。そうこうしているうちにも願書締切日は切迫して来る、他の者はほとんど出し終っていた。
当時水産学校といえば四国に一校もなく全国で十一校しかなかった。福島の親父さんにたのんでどこの学校がよいかということで水産の盛んな三重県を選んだのである。書類の取りよせもしてもらい、さて願書提出という段になって大決心を必要としたのであった。もし一言のもとに駄目だと言われた時には、この親父さんに口添えをして貰う、ということにしていたが、願書の封筒を懐にして幾日かがすぎた。
家では沖桝網の準備の最中である。倉庫の中も外も、浜の方でも網やロープ類その他の漁具がいっぱいに広げられ、その間を大勢の漁夫達が所狭しと立働いている二月の終りである。よく出入りしている網屋さんと父が二人きりで店先きで火鉢を囲んで何かくつろいだ調子で談笑しているのを見届けるや、この時とばかりつかつかと父の横に走りよって懐から封筒を取り出し、「これっー」と差出したのである。一瞬父は「何だー」と言ってまだ話を続けようとしているので、「水産学校の入学願書……」と、ぶっきらぼうに言ってのけて、頭をかいてにやにやしていると、父は振り向きざまに「どこの水産学校に行くんだ……」と、とっさの反問である。私は「三重県」とただこれだけ答えた。網屋さんは水産学校という言葉に驚いた様子で、父が見ている願書と私を見くらべるようにして「そうですか、それはよろしいですね、漁師のお子さんも学校へゆくようにならなければうそですね。この近所にといっては三重県位しかないようですが、伊勢神宮もあり大変よい国柄ですよ」と言ってくれるのでホッとしたのである。父も漁師だって学校位にはやらなければという気持もあったのだと思う。「おおよし、すぐこれを出せ」と言ったきり、また元のように話しを続けていた。
私は生れてこの方、その時の父ほど有難さをしみじみと感じさせられたことはなかったのである。その後神戸にいる叔父の家へ型通りの受験勉強の仕上げのため上神し、そこから叔父に連れられ試験を受け合格、四月八日入学式という運びになったが、家事で目の回るような忙がしさのさ中に母と祖母が、あれこれと眼も覚めるような真新らしい布団を縫いくるめてくれる。行李、バスケット、シャツ、猿又とすべての身廻品を新品で買い整えてくれているのをじかに見ては、なんだかすまないことのように思え、嬉しさもひとしおであり、勉強して孝行しなければならないという気持を起したのもこの時であった。
朝鮮でコレラの犠牲者を出してから三年後に、家では引田沖合の定置網漁業に切り換えていたのであった。春四月初旬より梅雨期の六月迄は、産卵の為に外洋より回遊してくる鯛、鰆などの大形魚を目あてとしたもので江戸時代よりある岡桝網とは異なり、遙か沖合に設置するため水深の関係で規模も必然的に大形化したものであって、私が水産学校に入学した当時には二十統程を、また、六月以降十二月迄は徳島県境の禿崎沖にあじ、さば小形大敷網を敷設し操業していたのであった。双方共成績はよく特に沖桝網に至っては内海漁業のホープとして瀬戸内海全域に拡がり、私が筆を執っている明治百年の現在、漁場の荒廃の極度に達した今日においても細々ながら操業をしている現状である。
このような状況であったので学校へもやってもらえたのだと思う。それでも毎月送金してもらう金二十円也の学費は大金であった。なんでも船頭漁夫の一カ月分の給料よりも上回っていたのであり、これを五年ものながい間送金して貰うというのは、なみたいていの事ではなかった。入学試験の最終日は身体検査と口頭試問で、なぜ本校を選んだのか、父か君か、「僕」と答え、理由はと問われ、「日本は小さな島国であるが四面海に囲まれ水産業は世界第一位だと教わってきた。然るに僕等のような漁村生れの子弟は家計が苦しいのでなかなか学校へはやってもらえなかった。自分達も勉強して他産業のひとびとと共に肩を並べてゆけるような立派な人間になりたい。そのために父に願って本校を選んだのだ。」と答えたのであった。
この試問の教頭は市村確という製造科の教諭であったが、入学当時はまだ寄宿舎が出来ていなかったのでこの市村教頭宅の裏座敷を下宿にあてて貰った。入学式が終って一週間位は旅館から通っていたが、準備が整い三人の生徒と共にこの裏座敷に移ったのは日曜日の午後であった。食事一切は奥さんに賄って貰うということになり、掃除から洗濯、身の廻りはすべて自分達でやるという、全く新らしい生活が始まったのである。月曜の昼食事に奥さんからの弁当が届いていた。弁当箱食事も初めてである。アルミの立派なもので蓋を開けると、プーンと海苔の香りが鼻をつき、飯一面が真黒く蔽われているのでびっくり、食べた弁当のうまかった事も印象に残っている。
日がたつにつれて学校の科目もそろそろ解りかけて来、道で出遇う人の中にも顔見知りも出来、風俗、言葉使いなどにも馴れそめてきたので、故里への手紙をと思い、さて筆をとってみるが、なんと書いてよいか戸惑いながら何枚も何枚も便箋をつぶしてやっとのことでまがりなりにも、たどたどしく自分の言いたい事がどうにか書けた時の晴ればれしさはとてもの気持で重荷でも降したように感じられたのであった。その頃の土地柄といえば、学校のある和具村は真珠養殖の発祥地である英虞湾を囲む崎島半島の中央部に位置し南側は茫洋たる太平洋と、そして北浦は波静かな英虞湾とにはさまれた細長く小高い丘陵地帯で、麦と芋と海女とで全国的にも陸の孤島として有名な僻地であることを学校へ来て始めて知ったのである。
崎島地方の言葉使いはとても荒っぽく、特に海女の話しぶりなどは馴れない者には全然通じないほど荒く早く、怒号にも似た大声で面喰ったのである。或る日曜の午後、級友仲間と共に荒波の打寄せる太平洋岸に遊びに出かけた時のことであった。磯と磯とに狭まれた岩間で焚火をしながら大声でがやがや騒いでいる赤銅色のたくましい裸女の一団に出あったので、不思議に思って「あれはなんだ」と聞いてみると、あれが海女なんだ。いまはアワビやサザエを採っているが、まだまだ水が冷たいからながくは海にはいっておれないので、しばらくはいっては陸へ上って焚火で冷えきった身体を温めているんだというのであった。
その後に聞かされたことであるが、その級友達の母も姉もああして毎日海女になって海に潜っているのだというので二度びっくりであった。よわい七十才に手の届こうという彼等の祖母達でも、新らしい禁漁区の海あけなどには若い海女達に交って、昔とった杵柄とばかり海底に挑んでゆくというのであるから仰天ものである。これは崎島半島特有の、伝統としてのみ、可能なことであって、常人共の一朝一夕の、勇気や出来心などをもってしては、とうていなし得ることの出来ない、全く悲壮極まるもので、これについては、まだ遊びざかりの幼ない頃より、海に親しみ、海と遊び、海にくぐってゆく習わしが、遙かに遠い先祖より、否応なしに受け継がれ、海女としての荒わざも、女として生れたものの誰しもが、当然踏襲しなければならない、生きるための、宿命というものとなって、はじめてなし遂げられているということを、聞かされ知ったのである。
和具村に限らず、崎烏半島一帯は、地勢が示すように、細長く狭苦しい丘陵地であるため、米の収獲はほとんどなく、麦と芋と豆類が、農業生産のすべてであり、必然的に海への依存度が高まった結果だと思われるのであるが、海に出ない時は、畑仕事、家事全般と生活上のすべてが、全く女の双肩にかかっているというのが本当で、当時の俗な言葉を借りて言うなれば、次のようなことがまことしやかに耳にこびりついているのである。「女と生れたからには男一人位が養えないような者は嫁となる資格がない」と極端にも聞えるようであるが、実際のところ家計の七、八割迄が海女によって稼がれているのであるからうなずける話であり、もちろん家庭における主導権そのものも海女にあるというのである。岡仕事における如何なるはげしい労働にも耐えしのぶ頑健な体力と、荒波と闘いながら息を呑んで海底に潜り、危険極まる岩礁の間をたゆみなく獲ものを求め追ってゆく気魄はどうして生れるのだろう?それは麦と芋と豆類を主にアラメ、ヒジキ等の海藻と魚貝類が食生活の全貌であり、これらによって荒業が賄われているのであって、なおこれらの海女達が全国的に見ても大へん長命であるということをも不思議な思いで聞かされたのである。
学校は和具村の中央部の小高い岡の上にあった。前身が崎島水産補習学校で入学当時は校舎も古く小さく意外に思ったのであるが、後になって立派な校舎も出来たのであった。学校長は海上三里の浜島町にある三重県水産試験場長の能代日出雄氏が兼任していたのである。週に火曜、金曜と二回学校に見えていたのであるが物静かで、威厳もあり信頼感のもてる立派な人格者であることが一眼でわかるほどであった。今の東京水産大学の前身水産伝習所と呼ばれていた頃の第三回卒業生というのであるから相当の年配であった。今は他界していないが私の最も崇拝する水産人の一人である。
御木本幸吉翁がうどん屋の小僧時代から養殖真珠の研究をしていたという話もこの能代校長から聞かされたものであり、「君達も大いに勉強して水産のために御木本翁の如く功成り名を遂げるような立派な人となって本校の名誉を高めてくれ……本校は名前が示す如く水産のために志を摩く学校である」「稚魚を愛せよ大漁が続く浜に黄金の花が咲く」とこの標語も同校長の言葉であったと記憶している。学校の休暇で郷里への行き帰りにポッポ船に乗って英虞湾を渡る時その中程に多徳島という島がある。この島の周辺が御木本翁が最初に手がけた英虞湾真珠養殖場なので、杉丸太が組み合わされ樽で浮べられた真珠筏が幾百台となく視界に迫って来る時など自然と魂を揺り動かし総身の引締るのを覚えたものである。「私の作った真珠で世界の女の首を締める」と豪語する翁の気魄にはいつも叱咤されているような気がした。
御木本の姓は元は三木本なのであったが、陛下から賜って御木本と改名されたことなども知り、なおさら真珠王の偉大さに胸うたれたのである。そうしたことを見聞きするうちにも私の心中には何かを期するものが胎動しつつあったのは確かである。休暇で郷里へ帰るたび毎に御木本真珠養殖の模様を父に語っていたが非常に関心を持ち、時折父の方から私にいろいろたずね出すというようになり、いつのまにか吾々父子の間には次代の水産、作る漁業への夢の思索が芽生えて行ったのであった。
三年生の夏季休暇前の休日友達二名に連れられて英虞湾へ魚釣りに出かけた時のことである。最初二時間程はベラ、キスなどがよく釣れて面白かったのであるが、日が上るにつれて暑くなり、岡の松蔭で休憩しようというととになって船を漕ぎ寄せていたのであるが、斜め左方の小島かげに鰹釣りの餌鰮を生かした小割網が三個眼にとまったので、ついでにそれを覗いて行こうというので、その小割網に船を漕ぎつけて行ったのである。三メートル四方のの小さな小割網の中を覗くと何万と数知れぬ鰮が真白な頬を輝かしながらぐるぐる円を画いて渦巻状に游いでいるのは本当に奇麗とも可愛いいとも見られ、またこんなところに入れられてかわいそうにとも、いろいろな思いで見つめていたのであるが、ふとその鰮の渦の中心部にひとかたまりの小鯖が混っているのに気付いたので、小鯖もいるがやはり鰹釣りの餌に使うのか?と尋ねたのである。
友達二人はお互い顔を見合せながら、使ってはいるが小鯖は釣っても叱られないんだ、吾々もよく来るんだよ。と何気なく言い放すので不思議に思い、釣ってもいいというが、これが釣れるのか?と反問すると、ああいいとも、釣れるよ、とこうである。まさかと思いそれでは釣って見よ!と言ったのである。私はこんな狭苦しい中に入れられてどうして餌になどつくものか?という先入感が先行していたものだから、二人の何気ない返事に戸惑いさえ感じたのである。その次の瞬間一匹の小鯖が目前でやすやすと釣り上げられ、二人は交るがわるにまたたく間に十数匹の小鯖を船板の上にばたつかせてしまったのであった。船を岸につけながら私はいろいろな感慨に打たれたのである。
一尾一尾手にとって数えながら並べていた一人が七センチ程のハマチの子を手にしてこれは餌鰮をよく喰うので釣り上げると喜んでくれるんだ!と示したのである。私はその鰤の子を手にとり、これは家でやっている大謀網の枠網にもよく遊び付いているので、生き鰮でよく釣れるんだ……。こう言いながらも私の場合はそれは自然の海の中でのことである。あんな小枠に入れられて餌付きすることなどは全く思いもかけぬことであった。この日の釣りによって私は友達からも魚からも意外なことを教えられたのであった。
生きるためには如何なる環境の中にあっても喰わなければならないという、生きとし生けるもののすべてが持ち合わせている食欲本能であることを教わったのである。この教訓が後の安戸池養魚事業へのよすがともなり、目安ともなり、着手への自信にもつながったことはいうまでもない。そんなことがあってから、学期試験も終え七月中旬暑中休暇となって、いそいそと郷里へ帰ったのである。
鳥羽駅まで出るのには昔のこととて不便そのもので船と車で三時間以上もかかったのである。昼前に汽車に乗り、二見浦、次は宇治山田(今の伊勢市)駅である。名物の赤福を例によって五箱買って土産とし、関西線大阪湊町駅までの六時間余りの長い車窓である。鈴鹿の山並みを右手に見ながら亀山、関、加太、伊賀上野と列車が木津川沿いに、後醍醐天皇の行宮碑を車窓から拝める笠置山を過ぎる頃になると、もうそろそろ奈良である。
伊勢神宮には学校からでも何回も参拝しているのであるが、奈良に一度下車して東大寺にも参詣し、大仏殿に手を合わせて祖母への土産話の一つにもしたいと、いつも思ってはいるものの、さていざとなると何時も車窓から、手を合わせて、拝むという気安めを自分勝手にしていたのであった。今度こそはと思っていたのであるがその時になると、なかなかふん切りがつかず、まごついている間に列車は奈良駅についてしまった。二、三分の停車時間の間にもいろいろ迷ってみたが、ついなく決心がつかめず、何時ものように手を合わすのみで、先を急ぐ結果となってしまった。これについては必らず一度下車して、参詣をするようにと祖母からも言われていたことなのであって、何かすまないような悪いことをしたように思われてならなかったのである。
その後ついなく下車することが出来ずじまいで、ようやく参詣することが出来たのは私が五十路を過ぎてからのことであった。なくなった祖母への生前の約束がなかなかに果せなかった自分の浅ましさ気儘足らなさを今なお思い返さずにはいられないのである。
大阪を夕方蒸気船に乗りこむと、もうかえったという心の安らぎがくるもので、南京虫が沢山いる薄暗い三等室の隅っこに毛布にくるまってぐっすり寝込んでしまうと、翌朝東の空が染まる頃合には船は淡路島を過ぎ鳴戸の瀬戸も渡り引田の浦へはもう一時間足らずという航程になる。飛び起きて顔もそこそこに洗い荷物をまとめて甲板に出る。じっと立ちつくして引田の方向に眼を釘づけにする。しばらくするうちに墨絵のようにかすかに静かに故里のたたずまいが水に浮かび上ってくる。胸はふくらみつづけ、いよいよ帰ったという実感が湧きつのり、祖母、父母、兄弟とそれに友達の顔まで一年ぶりの帰郷である、次から次へと走馬燈のように頭の中をかけめぐってくるのである。
日の出と同時に船は引田の浦に錨を降し艀に乗り移り、海岸に漕ぎつく頃合にはもう二、三の友達が眼をこすりこすり浜に出迎えてくれているのを見届けるや、何か胸につまるものがこみ上げてくる。あまり言葉にはならずお互いに、おお!おお!と口走ったのみでこれが一年ぶりの挨拶である。重たくもない荷物を、ひったくるようにして持ち運んでくれる遠慮のいらぬ友情というものは何にもまして清く貴いものである。
船つき場から海岸づたいに五分間も歩けばもう家で、形ばかりの帰郷の挨拶をすますと、むしくるようにして旅装をとく。ほんとうにやれやれといった寛いだ気持になれるもので、けだしこんなすがすがしい気安さは世界広しといえども我家以外ではとうてい味うことの出来ないものであるということを思い知るのである。休暇で帰郷してから一週間程は福島の親爺さん宅や友人の家などへ土産物をもって挨拶かねがね遊びに行くのであるが、それもすみ、少し落ちつきがくると、次からはもう家の手伝いである。
学校入学当時には夏から秋にかけて禿崎沖に小形大謀を敷設していたのが、二年の夏休み頃からは松島沖にあじ、さば大型大謀を二統経営していたので、その成績もよくその大謀網に父の船に乗り組んで他の漁夫達に交って網繰りをやるのである。潮時をはかって四雙の繰り船に乗りくんだ大勢の漁夫は、一斉に足場を固め、網地をしっかと摑み、掛け声を揃え、どっこいしょ、どっこいしょ……と腕と腰とに力をこめて前後左右のバランスをとりながら繰り進んで行くのであるが二時間以上もかかる大網である。終りに近づく頃にはみんなかなり疲れているのであるが、それでも最後の魚捕網が真近に迫ってくるとまた一段と力と声をはずませ必死になって魚を追いこむのであるから勇壮そのもので、繰り終えた時には、みんなからだじゅう汐と汗とでびしょぬれになっているのである。その日の漁は小アジが大部分であったが中にヒラゴイワシ、小サバ、ハマチの子等がほんの少しばかり混っていたのであった。曳船に曳かれて帰港しながらみんな魚の選別にかかるので、父も私もみんなとともに魚を選別していたが私は小サバとハマチの子を一尾宛手にとって家に持ち帰ったのである。
夕食事その魚を焼いてもらって食べながら祖母にそれを示して休暇前の魚釣りの模様と私が驚いたわけなどを詳しく話しているところへ、父も浜から帰って来て食膳についたのである、父は驚いたように小さな枠網の中で餌でつれる!このハマチの子もか!と眼を見はりながら何かに憑かれたような表情であった。御木本真珠王の話は何時もしていたのであるが枠網の中に閉じこめられている魚が餌に喰いつく話は初めてである。安戸池を何かに利用出来ないかという話は去年の夏休みにも父から聞いていたが、この魚のことから再び安戸池の話に自然と向いてしまったのであった。
当時安戸池は入口が打ち寄せる波のため次第に浅く狭くなり昔から何万尾というボラが毎年捕れてきたが近年になってそのボラの寄りが悪くなり権利者である振興組合も操業しても経費が生れて来ないというので困っていることは父からも聞かされていたが、この魚の話がきっかけとなり、次の日もまた次の日もというように、安戸池についての考え方には次第に真剣味が加わってきたのであった。そして四十日程の暑中体暇ももう残り日が十日という八月中旬夕食後父が私を呼びよせて次のように言ったのである。これからぽつぽつ安戸池を借り受ける交渉にかかろうと思っているが、今日本で行なわれている養殖事業の実体はどんなふうになっているんだ?との問いに私は当時見聞しているそのままを次のように答えた。
海面養殖では海苔、カキ、真珠、それにエビ、カニ類の蓄養位で、淡水にあっては鰻、鯉、鮒、それにサケ、マスの人工孵化放流事業といった程度であると答え、海洋魚族の養殖には全く手がつけておられない状況を強調、学者、研究家においてもまだまだ研究はしているのだが成果を挙げていない状況だと……。うう!そうか、もし安戸池を養殖場にする場合何をとり入れたらよいと思うか?私はあれだけの広い面積があるのだから今行なわれている養殖なら何でもやれると思うし、まだやっていない魚が殆んどだからきっと勉強次第で何かが見出せると思うと答えたのである。父は乗り気充分であるので、よし!と一口言ったきりであった。休暇が終り友達に見送られ船に乗り大阪に上陸して知ったのが関東の大震災であった。大正十二年九月一日厄日の二百十日である。学校へ帰ってからでも毎日のように新聞その他によって物情騒然たるものを感じさせられ、真昼時で激震、倒壊、火災と三つだまの災害が重なって大惨事となり、通信交通網は絶たれまちまちの報道が伝えられ、また或る三国人の暴動が起こり戒厳令が布かれたというので一時はどうなることかと、金国民はかたずを呑んだのであるが次第に真相が伝えられるようになり、はじめてみんなほっとさせられたのである。またこの年の十二月二十七日には虎の門事件が起り、不逞漢灘波大助が摂政の宮狙撃という重大事を引起こしたが幸い大事に至らなかったのであるが震災に次ぐ事件だけに国民の心胆を寒からしめたものであった。
こうした世情のさ中にあって父は人を介したり、また自らも振興組合の役員宅、漁業組合へと安戸池借入れについての話し合いに奔走していたのであった。この安戸池借入れについては三年以上という長い年月を要したのである。出来かかった話し合いが元のように崩れ、また持ち返すというように、容易には纒まらなかった。それでも希望はすてなかった。ひたすらにたゆまぬ努力と忍耐が続けられ漸く実を結んだのが大正十五年の年末で大正天皇が崩御された二十五日の翌々日の昭和元年十二月二十七日であった。
時に若槻礼次郎内閣時代で台湾銀行の取付騒動等がおこり二年四月には田中義一内閣が出現するという世は正に不況のどん底にあった。振興組合との話し合いが出来ると同時に香川県に対し区画漁業権設定の申請が漁協を通じてなされ、九月二日官選第二十一代元田敏夫香川県知事印をもって区画漁業権第五九〇号が下付されたのである。
交渉の結果決定したのが次のようなものであった。
一〇〇〇円也 慣行寄魚漁業権 使用料金 振興組合
六〇〇円也 区画漁業権魚類養殖 使用料金 引田漁協
二〇〇円也 事業協力料 安戸部落
計 一八〇〇円也(但し一ヶ年分)
これを説明すると、一〇〇〇円也の慣行寄魚漁権とは遠く藩政の頃より特別理由の元に下付されて来たもので権利期間は更新を要せず永久であり、漁業期間は十一月二十三日より翌年三月二十二日迄の四ヵ月間。六〇〇円也は新設区画漁業権(免許期間十ヵ年)行使料で寄魚漁期を除いた三月二十三日より十一月二十二日迄八ヵ月間のもので、寄魚漁権、区画漁権を合わせて一ヵ年間の養殖が行なえるというものであって、二〇〇円也は事業への協力料として安戸池周辺五十世帯部落に対し村金として年々支給する金額として定められたものであった。
養魚秘録『海を拓く安戸池』(2)~志摩の国~〈了〉
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養魚秘録『海を拓く安戸池』野網 和三郎 著
ハマチ養殖のパイオニア、ワーサンこと故野網和三郎さんの自伝です。世界で初めてハマチの養殖に成功したワーサンの人生を懸けたノンフィクション物…