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逝く春

 土砂降りである。土砂降りではあるが、そこは見慣れた教室であった。どしゃどしゃと雨が降る中、A氏の周りには人だかりができている。学友たちがA氏を取り囲んで何を話しているかと思えば、先ほど上演された演劇についてである。
 学友たちにも教師にも評判の舞台は、先の出し物の最後に上演されたもので、それはA氏の一人で作り上げた作品であった。演出も監督も主演もすべてA氏であるというそれは、当座の話題をひとところに攫っている。
 皆は口々にそれを褒め称える。どこどこの演出がよろしいであるだとか、なんという台詞回しが素晴らしいであるだとか、はては劇中にてA氏の歌う歌曲を即行に覚えて歌い出すものまでもある。そしてその歌曲すらも、A氏が作詞作曲したという肝入りであった。A氏の周りの人だかりは止まず、A氏本人への賞賛も止まない。
 しかし当のA氏といえば、その熱狂に一呼吸置いたような、いやに冷静なそぶりをしていた。いや、それはそぶりではなく、冷静の顔を装った困惑である。A氏は何も自らの制作物への多大な賞賛に、畏れ控えているわけではない。……A氏は、その演劇のことを、何も知らないのである。皆が褒め称えるその作品のことを、A氏は寸分も知らないのだ。
 A氏の記憶からすると、その演劇のことは、頭の中のどこをどう掘り返してみても存在していない。そんな様だからつまり、作るどころか主演だの演出すら、そんなことをやった覚えがないのである。やった覚えがないものだから褒められたって分からない。しかし周りの熱狂は凄まじいもので、A氏当人がそんなことを言い出したところで、まともに取り合うようなものはいないと思われた。
 こうなってしまえばA氏としてもしようがない。ただおずおずと、その内容すら分からないところを押し隠しながら、A氏は浮かれた周りの学友らに問いかける。
「記録は残っていないのか」と。
 せめて映像でも残っていたらと思ったものであったが(あるいは自らが短期的な記憶喪失ではあるまいか)、上演中はそれどころではなかったのだという回答で、その問いがあるや否や今度は、そうして記録として残していなかったことに対する後悔が漣のように人の間を練って行った。
 ともかく今度は賞賛の中に後悔を一混ぜして話題の熱が高まっていく。肝心のA氏一人を残して、その作品に対する評価は更に増していった。
 ところでA氏は、いつでも主演に憧れてきた男である。演劇というものに夢見てきた男である。これまでそんな切欠も勇気もなかったから、なんということもない顔をして芝居見物によく出かけていたけれども、本来は自らが、その板の上に立ってみたいと願って止まない男であった。その身体をすべて使った表現を、渇望してやまない男であった。それであるから、今この状況は、A氏にとって喜ばしいことであるのには変わりがないのだ。
 本当のところはどうであるのだろう、とA氏は思う。本当に己が主演として演劇を、表現をやったのであろうか。そうしてそれを、皆が評価してくれるのであろうか。
 A氏には記憶がないのが惜しかった。自らがどんな表現を体験したのか、欠片でも覚えていたかった。しかしあるいはそれが、ここにいる全員が口裏を合わせた嘘であろうとも、もうそれでも良いような気すらしている。
 A氏は今ここで役者となったのだ。A氏は主演となったのだ。……A氏は、望んでいた表現を、手に入れたのだ。ああ、とA氏はひとり嘆息する。
 これでようやく思い切りがつく。
 己の望んでも手に入れて来られなかった、この人知れない夢への渇望。A氏にはそれが、今この仮初めの賞賛の中で、昇華されてゆくように思われた。

 ……と、いう夢を見たのサ。


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