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「夢を叶えるための文章表現」のまとめと考察

noteフェスに参加してきたので(いつの話だよ…)、まとめと自分なりの考察を書こうと思います。(大遅刻ごめんなさい)

鈴さんは今回の公演の中で、

言語化とは
①頭の中でこんがらがっているものを
②言葉にして整理して
③次へのステップに役立てること

であるとおっしゃっていました。

初めの第1,2,3章では、これら一つ一つのまとめを書いたうえで、さらに自分なりの解釈を与えていくことを試みます。そのあとの第4,5,6章では、言語化の必要性やメリット、メディアの在り方について考えていきます。


①頭の中でこんがらがっているものを

鈴さんが述べた「頭の中でこんがらがっている」とは、主に自分自身が抱いた「違和感」を指していました。しかも、「個人」ではなく、「社会構造」。なぜメディアは、「クラスターフェス」なるものをやっている人の様子を取り上げ、「なんでこんなことするんですかねぇ」だけで終わるのか。なぜ都会の人たちは貧困層のことを想像できないのか。そんな自分の違和感や繊細さ、生きづらさ、”なぜ?”を大切にし、目を向けていこうという内容だったと思います。

ちょっと話は横道にそれますが、こんなツイートを思い出しました。

学校には、いまだに理不尽な指導やわけのわからないルールが多く存在するようですし、実際私も疑問に思った点は多かったです。でも、そんな違和感を大切にしながら生きていこうと思えたのは、ごくごく最近のこと。

おかしいことをためらいなくおかしいと言える、そんな環境が必要とされているのでしょう。


②言葉にして整理して

ここでは、①で出てきた違和感に対して、言葉を与えていきます。しかし、それはたんに「なんでこんなことするんですかねぇ」とか、「なんでわかってもらえないんだろう」と、思ったことをそのまま口に出したり書きなぐったりするのではありません。

ここで初めて、自分以外の視点を獲得する必要性が発生します。「誰が悪いか」ではなく、それぞれの行為者の視点に立って、「社会のどの部分に問題があるか、「なぜ”そうならざるを得ない”のか」について、詳細かつ大局的に考えていきます。

これは、社会科学的な視点とよく似ていると感じました。私は理系ですが、1年生の1学期に少しだけ社会科学を学んでいました。一般的には、「社会の状況がよくならないのは政治家のせいだ!」などと、一部の”悪者”のせいにしたり、「みんなが他人に優しくなればもっと世界は変わるんだよ!」など、個人の心の働きに還元する場合が多いように思いますが、残念ながら、それだけでは社会は変わりません。

少子化を例に考えてみましょう。やはり、「国がそういう対策をしないからだ!」と叫んだり、日本の若い女性たちに「令和はキャリアと子育てを両立できる時代なのです!!!」などと呼びかけたところで、少子化は止まらないでしょう。社会科学では、当事者は基本的に、合理的な判断に基づいて自己利益の追求を行う行為者であるとされ、上記のような場合に想定される”悪者”が原因だと言ったり、個人の心の働きかけて解決しようとしたりすることはしません。

まず政治家の立場から考えてみましょう。少子高齢化が進んでいて、尚且つ若い世代の投票率が低い日本では、高齢者に有利な政策を掲げた方が票を集めやすくなります。少子化対策(あるいは教育など、子どもに関わる政策)は、高齢者にとって優先度の低い政策であることからすると、必然的に高齢者にとって有利な政策が多くなってしまう状況が発生します。

子育てや少子化対策が後回しにされる状況下で、一般市民はどのように動くのでしょうか? 子どもを育てたいと思う人が少なくなるのは至極当然です。当然若い世代の人口は減り続けます。

このように、少子高齢化は、誰かがその状態を望んでいるわけでもないのに”起こってしまう”現象であると言えます。

これはあくまで一例ですが、このように、社会の構成員が合理的な判断をした結果が複雑に絡み合うことによって様々な社会問題は起こっています。「あの人が悪い」「みんなの意識が足りないからだ」では解決しません。もっと大きく、「社会の構造」に目を向けていく必要があるのでしょう。


③次へのステップに役立てること

もし整理した言葉や考えを広めたいと思ったら、もし糸をほどいているときにみんなに知らせた方がいいと思うことがあれば、何らかの方法でそれらを表明してみましょう。それはスピーチかもしれませんし、イベントへの応募という形かもしれませんし、文章表現かもしれません。ここでやっと文章を書くという選択肢が出てきます。

ここで不特定多数の人に文章を書くにあたって、「共感を超えるための言葉」が必要になってきますが、詳しくは後述します。

SNSやnote、ブログなどを用いて、誰もが情報を発信できる時代になりました。おかしいと思うことがあれば、誰でも声をあげられる時代になりました。行動に移すときの障壁がかなり小さくなっていると思います。情報過多が問題視される一方で、これは大きなチャンスです。私も積極的に発信を続けていこうと思います。


自分の道が見えてくる、共感の壁を越えられる

最後のまとめで、鈴さんは「言語化」による恩恵を2つ述べていました。

一つは、「自分の進むべき道が見えてくること」でした。鈴さんは中学生の時に「自己分析ノート」を作成していたそうです。その作成を通して、自分が過去にどのような判断を行ってきたかを明確にし、「これしかない!」と思える自分の進む道が見えてきたのだそう。

文章と思考は非常に興味深い関係性を持っています。というのも、「考えが先にあってそれを文章に起こす」ことは容易に想像できると思うのですが、その逆、つまり、「文章に起こすことによって考えがまとまってくる」もありうることだと思うのです。

この記事を執筆中の今、まさにこの瞬間も、文章によって私の考えはより強固なものになってきています。文章は、断片的な情報や事実の羅列ではありません。文章を書く時には、どうしても論理関係やストーリー性を考えなければなりません。そんな風にして「文章に熟考させられる」と、脳内にバラバラに散らばっていた考えが一つにまとまる感覚を味わうことができます。

言語化による恩恵のもう一つは、「共感の壁を越えられること」でした。SNSやインターネットが広がり、同質な価値観を持った人間がバーチャル空間で固まっていく現象(エコーチェンバー、フィルターバブルなど)がどんどん進んでいく中、世界の分断を超えて様々な人と対話を行っていくうえで、「自分の普通に依存しない」表現が必要であると鈴さんは強調していました。論理構成をきちんと練ったり、確かな根拠づけを行うことによって、はじめて分断の壁を越えられる可能性がある、と。

しかし、書き手がきちんと論理を使いこなしたとしても、問題はまだ残されています。

日本人の1/3は日本語が読めないという衝撃的なデータが存在します。書く側がいくら論理構成や根拠の信ぴょう性などに気を配ったとしても、それが必ずしも届くわけではないことになってしまします。

不特定多数の人に情報を伝達するには、確かに共感ではなく論理を使う必要があります。しかし、その論理をきちんと理解できない人はどうすればよいのか、そもそも文章がきちんと解釈できない人にはどのように情報伝達を行っていけばいいのか。現段階では、論理はこの問題を解決できていません。


アカデミック・ライティングの必要性

そうはいっても、論理は個々の人間の主観によらない思考のためのツールです。やはり共感より論理の方が射程圏は圧倒的に広いはずです。論理力を鍛える機会は、平等に確保されるべきだと強く思います。ここではその方法の一つとして、アカデミックライティングの重要性について考えておきたいと思います。

YouTubeでの講演を終えた後、TwitterのSpaceで鈴さんが話していました。そこでの鈴さんはかなりリラックスしていたようで、YouTubeの配信とは違った様子でした。私もそのSpaceに参加してきたのですが、そこで鈴さんが面白い疑問をリスナーの方々に投げかけていました。

そういえば日本の学生っていつアカデミックライティング習うの?

アカデミック・ライティングとは、学術的文章や学術的文章を書く技術を指します。学術的文章とは、授業レポート、卒業論文、修士論文、博士論文、投稿論文などです。

不特定多数の人、あるいは自分と違う価値観を持つかもしれない人に向けて、自分の意見を主張したり、情報を発信したりするための文章では、当然共感によらない手法、すなわち論理が必要になります。それは一朝一夕に身につくものではありませんし、どこかで教わる必要があるものです。

しかし、日本の大学でまともにアカデミックライティングを習う機会はないような気がします。

ただの愚痴になってしまいますが、大学生になって以来、提出したレポートが添削されたことはありません。

先ほどの鈴さんの質問に対して、私は以下のように意見を述べました。

以下、「あまり機能していない」理由について述べます。

個人的には、学校の国語の授業というと、先生が生徒の前に立って黒板を使いながら授業をし、時々問題集やプリントを使いながら演習をする、といったイメージが強いです。あまり「自分で内容を考えて文章を書く」機会がない気がします。現代文には記述問題もあるものの、答えがあらかじめ決まっており、自分のオリジナルの考えを表現するわけではないので、ここでは「読み」に入ることとします。

もし受験を念頭に授業が設計されてるなら、それはとても効率的といえるでしょう。しかし、書く能力の向上のためには、もっと文章を自分で考えて書く機会が必要だと思います。さらに、書きっぱなしでは文章力は向上しませんから、誰かに読んでもらう必要があります。先生に添削してもらう、生徒同士で読みあう、などの活動ももっとあってよいと思います。

現在、学校で習う現代文は「文学に親しむセミナー」であり「受験対策」であるため、書く能力を向上させる機会があまりない、というのが私の考えです。

分断を超えた対話をするにあたって、仮に対話をしようという態度があったとしても、言葉が通じないのではどうにもなりません。プログラミングよりも英語教育よりも、まず母国語の教育の方を危惧すべきではないかと私は考えます。


noteというオアシスで書き続けること

#おかしくないか日本のテレビ

これは一時期トレンド入りしたTwitterのハッシュタグです。

一般大衆は、「単純な情報」を求めているのだと思います。簡潔で分かりやすく、インパクトを与える情報が記憶に留まるのは至極当然でしょう。そして、メディアも需要と供給の原理に従って動いていますから、一般大衆の欲しがるような「単純な情報」を提供するようになるのは、確かに理解できなくもありません。

しかし、実際はそうではないと思うのです。「あいつが悪い」「こいつが悪い」といわれる際の「あいつ」や「こいつ」にもそれぞれ事情があります。そして最終的には社会の構造にまで目を向けなければ、社会問題の実態を把握することはできません。また、Twitterの140文字では、そんな複雑さを説明することは不可能です。

社会の分断を超えて対話を行うためには、「複雑さ」を許容するメディアが必要です。それは市場の原理に従って多くの人々が欲しがる情報を提供するメディアではなく、140文字以内の「つぶやき」を投稿するSNSでもありません。

そんな複雑さを許容してくれる、数少ない情報プラットフォームであるnoteは、大きな可能性を秘めているのだと思います。私も、今後創作活動に精力的に取組んでいきます。


編集後記
 
noteフェスで鈴さんが講演を行ったのが10/16(土)、その感想の投稿が12/26(日)、とんでもない遅刻ですね… 以下、少しだけ遅刻の言い訳をさせてください。
 平日は授業やら課題やらで忙しいので、土日にのんびり執筆して1か月以内に投稿できればいいかな、くらいに考えていました。しかし、11月半ばに指揮者に就任し、さらに急遽1か月後の演奏会で指揮をすることになり、そのあとはホール練習や演奏会本番など、バタバタしているうちにかなり時間がたってしまいました。
 また、久しぶりに記事を編集していると、以前よりも明らかに執筆に対する意欲が低下していました。一応文章にする前に簡単なメモ書きに草案を書いておいたのですが、あまり役に立ちませんでした。やはり私は、計画的にコツコツやるタイプではなく、気持ちが新鮮なうちに一気に書き上げるタイプなのだなと感じました。

12/16 某大学図書館の自習スペースにて

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