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ブリュッヘン×アマーデオとフェーリクス


フェーリクス・メンデルスゾーン=バルトルディとアマーデオことモーツアルト。

二十世紀古楽を牽引せしブリュッヘンと戦後古楽

 今日、古楽研究を巡る源流を探り当てようとするのは聊か難しい。狭義──よりストリクトに捕捉するなら、ポストWW IIつまり1945年代以降のオランダやイングランドに看る潮流とその在り方に多くを求めるのが最近的には妥当であり、彼らの、取り分け考証に基づく実践的フィードバックより得られたる各成果が全欧州、また北米大陸はおろか日本へと伝播でんぱし今日に実現せる「古楽隆盛」へと継承されるなる理解へと繋がるは、おそらくのところ主流とすべき見解を為すであろう。
 一方でバロック音楽研究というキーワードの許に探ろうとするなら、嚆矢こうしはメンデルゾーン=バルトルディによるバッハ・リヴァイヴァルをも射程とすべきであるは間違いなく、仮にそこまで遡らずとも、20世紀初頭のチェンバロ奏者たるランドフスカ(ただし彼女が用いたのはモダーン・チェンバロである)、ほぼ同時代になるドルメッチが主導せる前期古典派以前の演奏解釈まで顧慮すべきとの意見も当然あろう。加うるなら猶も古い音楽、具体的にはソレム修道院(ソレム・サン・ピエール修道院)におけるカソリック典礼歌たるグレゴリオ聖歌の実証学的研究と実践的普及、ソレムにおける新たなる途の模索と連動するユマニスム(ルネサンス)期音楽の再評価という、前世紀に芽吹き、1920〜30年代より活発化する運動も決して見逃してはなるまい要素である。

ランドフスカとモダーン・チェンバロ。彼女の得物は典型的モダーン仕様である。

 ドルメッチのイディオムは、それ自体が既に「ピリオド的(時代的)」ながら統語法的転用として50年代以降の実証論に基づく古楽研究にも活用をされ、ソレムあるいはユマニスム期音楽へのアプローチは、同じく戦後古楽への接し方へと一定以上の影響を行使、この両者は相互に作用を及ぼしつ、オランダを中核とするベネルクス並びに北フランス出身の綺羅、星の如き一連になる研究者や演奏家、更にはマンロウなどをも含むイングランドが彼らを輩出するは、まさに劈頭へきとうにも触れし如くになる通りである。また、この二つの流れは本邦にも果実を齎す。何より碩学にして表現者たる(あまり知られてはいないが作曲家としての貌も有する)故・皆川達夫先生がプロ、アマチュア問わず後進を良導せる帰結たるとて、声楽表現器楽表現の別なく古楽の研究と実践を通じては混淆、つまりクロスオーヴァーとも呼ぶべき相乗効果をさえ出来しゅったいせしめ、寺神戸亮てらかどりょうや若松夏美、有田正広、そして鈴木雅明や秀美、優人まさとら実力と人気いずれとも劣らぬ第一級の国際的古楽人をも生ましむる先行きをさえ決定づける。
 尤も、では他方のランドフスカが示す方向性を睥睨へいげいするに、如何なる評価を下すべきか。

 彼女が採る手法は結局のところ、時代が徒花あだばなを生み出すよりなかったは「むべなるかな」とも看取し得よう。確かにモダーン楽器による古楽普及というのは、一定以上の啓蒙と需要の喚起を誘発し、二十世紀には巨人カール・リヒターやヘルムート・リリングらを世に出だしめ、パイヤールと、彼が主宰するアンサンブル(パイヤール室内管弦楽団)、そしてイ・ムジチ合奏団は数多くのヒット・アルバムを量産し、モダーン・オーケストラによるバロック表現も実に多彩であった。なれど古楽研究とピリオド(時代的)表現が融合せる現代、未だ人気を誇るイ・ムジチ合奏団以外は、要するところ「需要」外にあるは残念ながら否みようもなき事実──。

リヒターの「ジャケ写」。彼が「席巻」もあり今日欧州のパイプ・オルガンは概ね近代仕様。

 なればこそ、所謂「ピリオド(時代)」表現を如何に眺むるかは、一層その本質をさえ問われるは最早必定とも規定してよい。結果たるとて真贋しんがんをさえ穿うがつのであれば、本来的にはピリオド=古楽器かモダーン楽器かは、実のところ問う必要もないはずである。つまりはピリオドが興隆するとはいえ、求められ受容されているのであれば、モダーン楽器による古楽表現もこの時代にあって猶も存立し得る。
 仮にもそう規定するなら、アマチュア団体などは現在であれ果敢にもバッハを俎上とするも良かれと、筆者などは思うてみたりもする。

 前述仮定の許に、今日拡く「古楽」を得るは造作もない。
 まず「バロック」を先蹤せんしょうと見定めてみよう。所謂バロック・ピッチはA=415hrzであり、国際標準ピッチのそれより丁度25セントつまり「半音」低い。ゆえに「ハ調」を基音とする楽曲なれば「ロ調」へシフトしてやるだけでそれなりに恰好もつく。
 それだけである。実に造作もない。1オクターヴ12のキイで充分に指も回るなれば「鼻をむ」より楽ではあるまいか。
 厳密に「キイ」を求めようとすれば確かにこの限りではないが、いずれにせよ「取っ掛かり」に過ぎず、俗に「平均律」で臨むのも知る契機の一端でもあり、ともなれば問題とすべきほどではなかろう。
「古楽理解=入口」は、実にそのような方法にて得るも適う。
 斯く思わばキイ云々は、それより2〜3ステップ先の話である。その上で時代表現=ピリオド的技法を如何に手の内とするかが課題となろう。歌唱表現であれ器楽表現であれヴィヴラートは決して利かせてはならない。またレガートにもマルカートにも偏らず流されずを心懸けるが枢要であるが、それは飽くまで基本姿勢であり、指導者如何と柔軟に捉えるがよい。あるいは古典派以降の作品であれば、多様な発想記号をも含め楽譜の指示通りに臨めば何ら問題はない。
 つまり歌い手であれば歌唱法を身に着けられるかを問われるのみであり、楽器の遣い手であれば得物がレプリカントをも含むピリオドか、それともモダーンかは瑣末な話と捉えてくはなかろう。
 より拘るか否かは、次なるステージでよかれ。

 いずれにせよ縷々るる陳べてきたのは表現者としての在り方に限るもので、単純にリスナーであれば後は趣味観に任せて構わないと考えるが、何はともあれであろうか。今般、ピリオド楽器になるアンサンブル、グループがみるみると増えて到る現実を目の当たりとするなれば、好悪の別は措いて、一度は「ピリオド表現」を体感されるがベターであるは言うを俟たないし、モダーン楽器による古楽表現も楽しめるなればより幅も奥行きも増すは間違いなく請け合う、そんな筆者である。
 とまれ──今年がアニヴァーサリーに当たる古楽の巨星となれば、やはり忘れてはならないのがフランス・ブリュッヘンである。当初の彼はブロック・フレーテつまりはリコーダー奏者そしてフラウト・トラヴェルソ奏者としてそのキャリアをスタートさせ、バッハのチェロ組曲──その驚異的なアレンジと表現によって我々を惹きつけ、1981年以降は自ら組織する「18世紀オーケストラ」を舞台に指揮者として有名を馳せる。

若き日のブリュッヘンと得物たるフラウト・トラヴェルソ。

 彼のオーケストラル表現、これは例えばウィキペディア辺りとは極北なる評価とするにやぶさかとはしないが、同年生まれの同じく古楽界が至宝たるロジャー・ノリントン、あるいはより若い世代になるトン・コープマンに比ぶるなら、比較モダーンな表現とは決して対立をせず、加えて受容するに抵抗を誘わぬバランスの行き届く描出にこそあろう。またそのレパートワーも抑制的であり、遡っても盛期バロック、否やまさにその名の通り1700年代の前期〜盛期古典派を中核としては、こちらも前期ロマン派たるシューベルト、メンデルスゾーン=バルトルディまでに区切る点がその特徴たると謂えようか。
 つまるところピリオド・グループとしては「耳に馴染みやすい」サウンドを誇りかつ、限定的なる意味でチョイスも容易いと看做して強ち謬りとはしない。

古楽リヴァイヴァルのパイオニアたるブリュッヘン

 尤もそうした特質は、ブリュッヘン自身がこのオーケストラを自らの色に染め上げるを潔しとせず、またモダーン・グループたるロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団との連携をも企図していたがゆえと捉えてよろしかろう。彼自身、異なる古楽オーケストラへも盛んに客演をしているし、また18世紀オーケストラへも様々な古楽通なる指揮者らを招いては、その表現を深化せしむる。彼らの録音は多くの場合、ライヴ収録をされしものが中心であり、ベートーフェン、シューベルトの交響曲全集はもとよりハイドン、モーツアルトの中〜後期交響曲、メンデルスゾーン=バルトルディの3〜5番の交響曲などなど、いずれも比類なき名演ばかりであるは流石と唸るよりない。
 今回はそれらが遺産より、モーツアルトの大ハ長調(KV 551)、加えてメンデルスゾーンの交響曲第三番イ短調「スコティッシュ」をお楽しみ頂こう。

 今日、モーツアルトを「神格化」する必要性は取り立てて在りはしない。彼には直接の子孫は存在しないし、その利害にあずかる関係者は最早なきにしも等しい。誰しもが彼の「神々しいまでの」芸術表現をひとなみに享受し得る権利を有し、また彼を崇め奉るを強要されるいわれもなければ、彼のタブーを巡る禁忌に言及し、その「出鱈目に過ぎる」生活態度を指摘して何ら憚るところさえない。一方で時に、未だ槍玉とされる妻コンスタンツェに限れば、今日において猶その評価は、修正の余地も充分に残されているともいえよう。彼女の生活史──その初期つまりアマーデオとの婚姻関係にありしそれをひもとけば、実に大半は妊娠と出産のための「ベッドに縛られし」日々の連続であり、寧ろ社会的生活破綻者は、亭主であるアマーデオに対して付与されるべき称号に他ならず、謂わば「悪妻伝説」はアマーデオ神格化が形成過程における「捏造をされたるレッテル」でさえあるとまで断じてもよい。
 いずれにせよ──。
 彼の出鱈目な生活も、その音楽表現を生ましむる原動力であり決して不名誉の烙印とはなるまい。それさえも彼の一部なのであるからして。

モーツアルト:ピアノ協奏曲ハ短調(24番)自筆譜より。彼の茶目っ気が一端を垣間見得る。

 仮に彼アマーデオが長命していたなら、あるいは今般「交響曲史」もかなり異なる道筋を辿っていたであろうは想像に難くない。三十三歳という、飽くまで今日的には「脂の乗り切る」時期に僅か六週間にて得られし最後の「三つの交響曲」は、彼の人智を超えて無限にも拡がる可能性──その伸び代が果てなく続くミューズの遠大なる事業が僅か一端に過ぎないともなれば、飽くまで続くであろう「幻の交響曲」群が如何なる威容を誇るものであったか、思い巡らせるほどに気も遠くなる命題であろう。
 つまるところ彼は手札、所謂「カード」を数多温存をしては音楽家たるとて歩む途もより栄光を保証されるはずであったに違いない。結果が偶然であったか必然なるかは措いて、きっとその天才がゆえに神が御前へと召されるのが偶々たまたま早かったに過ぎないのではあるまいか。

 この時点にて、正直のところを吐露しておこう。

 実に筆者は、モーツアルトの音楽には「然して惹かれず」興味さえ喚起されない。確かに彼が天才であるは間違いなく、その音楽はきっと「魅力的なのであろう」
 それはこんな筆者風情であれ請け合うべきところ。実際にアナリーゼを施せば、彼の作品が魅力は手に取るように理解し得る。なれど筆者には「冗長でいて只管ひたすらに窮屈、学術的学際的それ以外には毛筋ほどの価値さえ見出せぬ」類である(そこが所謂「大バッハ」との隔絶かくぜつせらるる絶対差=閾値いきちであろう)。
 筆者からするアマーデオの価値は、聴いていて「眠り」へと誘う「涵養かんよう的」効果以外には何もない。なればその価値は、一次的加工品や産品(酒や米の醸造と熟成、栽培過程)へ及ぼす科学的影響と解析・フィードバックくらいのものであり、後は精々のところ「眠れない夜に聴きたい音楽十撰」の、おそらくは大半を占めるであろう「退屈なそれ」以外の何物ですらない(否、下手を打てばそこからでさえ弾かれよう。謂わば眠りへとくべくセットしながら、その冗長さがゆえ眠るどころか聴いていていらめき挙句、眠気さえ吹き飛んでしまうという本末転倒をすら齎す害悪とすら呼ぶべき「魔の音楽」やもしれない)。
 いずれ好悪は人夫々。斯く手合いがいても良いではないか──。

モーツアルト夫人コンスタンツェ。彼女への無理解はそのまま今日音楽受容史に当て嵌め得る。

「モーツアルト──その神格化への途」に最大の貢献を果たしたるは、実証史学的研究の知見を動員して猶、やはりまずは未亡人コンスタンツェに帰すべきである。これは好むと好まざるとに拘らず、今日にては自明であり誰の目にも過たぬ事実である。斯く意味で「コンスタツェ=悪妻伝説」を巡っては、やはり眉に唾してかかるべきであろう。それでもモーツアルトを取り巻く諸研究の深化を看て、未だ彼女が「不当にも」扱われる現実は厳然として存在していよう。
 いずれ彼女は、アマーデオと死別して後、大きい方はやがてミラノの官吏となるそれと、小さい方はいつしか父と同じく音楽を志す二人のやんちゃな男児を抱え、「寡婦」としては平均的、否、より険しき試練をも与えられつつ、折節「僥倖」をさえ得る「果実」たるとてニッセンというデンマークが外交官との「邂逅」をいつしか「神」より与えられたのであろう。
 彼がコンスタンツェと手を携えザルツブルクへと落ち着き、先夫であるアマーデオの「使徒」を任じて我が喜びとすればこそ、彼の地たるや「本来的意味」にてアマーデオとの和解へと漕ぎ着け遂には19世紀中葉以降の「モーツアルト神格化」が総本山となり得たのではあるまいか、そう筆者は思量する。

モーツアルト「神格化」伝説そしてコンスタンツェ

 何はともあれ、コンスタンツェの「愛と生」を追えば追うほど、彼女の存在を抜きに今日的モーツアルト像というのは語れず、況して彼女が本当に「悪妻」であったなれば、往時的には「天才」ではあれ、ロココ調的退屈さから脱し得ぬアマーデオの音楽はおそらく、これほどに体系的なる研究対象ともされず少なからぬ作品は散逸をし、謂わば「知る人ぞ知る」程度のレパートワーを提供する「その他大勢」へと甘んじたであろう蓋然性は、決して否定し得まい。
 実際のところ音楽史を俯瞰するに、彼の名と作品群をごっそりとオミットをして捕捉した場合、音楽的思潮・潮流にはほぼ何らの本質的影響さえ及ぼすまい。先に「長命していたなれば」との留保が許に、例えば交響曲史が如何に変化を看たであろうかと陳べはすれど、飽くまで「仮定つまりif」に過ぎない。
 長命云々は措き別ジャンルへまなじりを転じてさえ結果は変わるまい。例えば楽劇「魔笛」⋯⋯やがて切り拓かれよう「ドイツ・オペラ」の入口として燦然と輝くであろうは請け合う。しかしである。コンスタツェの献身と布教がなければ=彼女が真に悪妻であれば、それは精々「躙口にじりぐち」にて一瞥をされるに留まる一瞬ひとときが花とて人知れず朝には萎み、彼女の従兄弟たるヴェーバーをば讃えるための「前史」たるとて軽く触れられし「押花的」添え物となったであろう、おそらくのところは。そのようなる観点より眺むるなれば──。
 いずれ良く謂えばアマーデオたるや、屹立せる独立峰なるは間違いない。

 一方でその存在が仮にもなければ、確実に音楽史における歴史的叙述を変えねばならなかったであろう「真の天才」こそ、メンデルスゾーン=バルトルディである。このように語れば、世の多くのクラシカル・ミュージック・ファンを敵に回すは承知の上で斯く申し上げたい、曰く。
「アマーデオがいようといまいと音楽史は変わらぬであろう。しかしフェーリクスなかれば今般音楽を語る能わずして不如意極まるは自明なり」と──。
 いずれも神童であり天才である。加うるなら、いずれもヨハン・セバスチャン・バッハへと崇敬の念を抱くという意味で、両者ともに「本物」である。これは紛う方なき事実として語り継ぐべきであろう。
 然るに思潮としての音楽、哲学表現としての音楽が発展を遂げるに、屹立せる独立峰たるアマーデオがその影響力を本質部分においては行使をし得なかったのに対し、あるいはもしもフェーリクスなかれば、器楽表現や合唱を含む声楽表現、より謂うなればオーケストラル表現もかなり異なるイディオムを採り辿る今日やもしれない。アマーデオという人は、既知既存なるコンテクストの許にその天才性を発揮したは明白である。例えば彼の、交響曲を筆頭とする管弦楽作品などは、その折節にての顧客が依頼に応えて「天才的プロフェショナル」がゆえなればとばかり、既知既存の技法やスタイルを駆使しつ「彼ならでは」のオリジナリテを現出せるも、当然ながらそれ以下でもなければ以上でもない。コンチェルトやソナタなど、他ジャンルにせよそれは変わりない。

全ての途は「バッハ=小川=流れ」より出でつ邂逅せる。

 彼にとってのバッハは崇敬し私淑する存在であり、その対位法的セオリーはアマーデオにせよとしを重ねれば重ねるほどにより恩恵へと浴しはすれど、決して喧伝する手段ではなかった(彼の後期〜晩年なる時代には、一般に対位法的書式というのは軽んぜられていたのであるが、アマーデオは例外的にもそんなテクスタイルを時代へと背を向けるがごとくに駆使するのである)。確かに、彼が生きた時代なればこその要請が結果ではあれ、そのように眺むるならアマーデオは、謂わば「リアル」な共時性のみに生くる人に過ぎず、イディオム・表現手法(寧ろ技法)としての経時的「音楽」とは飽くまで無縁であったのも事実であろう。

 ではフェーリクスは?
 今日バッハ復権の狼煙をまず上げたのが彼である。また、先んじるヴェーバーの表現を敷衍ふえんしては、所謂「オーケストラル・テクニック」の基礎をより拡充し、シューマン以降へと託したのも彼である。
 オーケストラにてプレイをしまた、オーケストラを振りし経験を持つ者としてかつ史学徒としての筆者からすれば、そこで両者への「ある一面における評価」を巡り、雲泥の差が着くは自明である。とはいえアマーデオを無価値とはしない。
 単に好まないし重視はしない、ただそれだけの話である。

 確かにアマーデオは生きた時代がゆえに、あるいは体系的教育をけられなかったがゆえに、また帰天があまりにも早かったがゆえに割を喰う、それは否めない。得物というキーワードからメスをれるなれば、例えば彼のキーボードのための協奏曲など、斯くなる時代が「端境期はざかいき」ゆえに、その楽器法──器楽書式を折衷的に組み合わせるよりないのも果たせるに「むべなるかな」ではあろう。
 仮にそうであるにせよ、当然ながら免罪符とはなるまい。
 時代は既に啓蒙的であり、なればこそエクスプローラーたり得るか否かをさえふるいへとかけられし鍵を握る局面を迎えていたは、その時代を生きる人々であれば周知せる事実である。ともなればアマーデオは、やはり「徒花あだばな」となるより途なく、神も憐んでは早々に召したのであろう、なればとて──。
 第二のユマニスム(ヒューマニズム)=ローマン主義(人間主義)を体現せるアヴァンギャルドらは如何であったか。彼らはまた異なる意味で、つまりは神へとあらがう人間主義なる「供犠くぎ」たるとて早逝したのではあるまいか。 
 シューマンなどはその典型であり、より早い世代になるシューベルトもおそらくのところは「気儘な人生」つまりは生活史が帰結たるとて、とも看做し得よう。
「幸福に言祝がれし」フェーリクスもまた⋯⋯例え模範的な生涯であったにせよ、やはり偶然か必然かは措いて天才がゆえの早逝ではあるまいか、などと筆者は眺めるのである(彼を取り巻く「不倫」の可能性については、敢えて言及すまい)。

掛け値なしの「幸福なる天才」フェーリクス

 彼フェーリクスの天才性もまた、アマーデオと同様に少年時代から連続性を以て間断なく拡がりをみせるのであるが、違いは歴然たるものである。これも時代が結果たるとて宣べてしまえばそれまでながら、要請がゆえに目まぐるしく求められし新たなる様式、スタイルの変遷へと先鞭せんべんを着けリードする存在こそフェーリクスであったは、改めておもんぱかるべき命題ではるまいか。
 交響曲の歴史を今一度ひもとくなら、ハイドン、そして彼の中〜後期に花開くアマーデオという大輪が花の果たしたる役割というのは、経時的には緩慢でありかつ事象的にも微細である。漸進的にもそのコンテクストが整えられていった、とも規定し得ようか。そう捉えるなら、ベートーフェンが如何に「革命児」であったかは誰の目にも明らかである。従来的なる型に嵌るようでいて規格外たる変ホ長調、同時並行的に編まれしハ短調とヘ長調──殊にヘ長調フィナーレでは、この折には実現をせぬも合唱などの声楽を援用するという当初構想を彼ルートヴィヒは懐胎しており、遂にはニ短調にてそれをも実現する。
 以降、その可能性追求は飽くなき音楽的営為えいい主宗しゅそうへと位置付けられるに到る。
 ベルリオーズの変態的表現を巡っては触れまい。飽くまで「主流」とも呼ぶべき系譜の変遷を睥睨へいげいするが本旨なれば。

 発端が「革命児」ベートーフェンであるは前述の通りであるが、とある偶然的必然──邂逅を仮に我々が得られなかったとすれば、交響曲史はまた異なる意味で、その様相をたがえていたは確実である。つまりシューマンがシューベルトの兄フェルディナントを訪れていなければ、そう⋯⋯究極的にはシューマン自身の交響曲も、あるいはドヴォジャークやマーラー、シベリウス、シャスタコーヴィチの交響曲さえも、我々は得る能わずして無聊ぶりょうかこつよりなき今日であったやもしれない。つまり大ハ長調 D 944あればこその今日である。この大ハ長調初演者こそフェーリクスであった。それについてはまた異なる機会へ譲るとしよう。
 いずれにせよ指揮者として、何より作曲家としてのフェーリクスの果たせる役割は、斯くも大きい。例えば彼の、スコティッシュと名付けられしイ短調交響曲の劇性の豊かさ、表現の振り幅の大きさは、最早「時代の最先端」をも超え想像を絶する傑作がゆえのシンボルですらある。
 もしもであるが、メンデルスゾーン=バルトルディを知らぬ向きに聴かせて「いつ頃の作品か」を問えば、おそらく盛期ロマン派以降の交響曲と捉える声は、あるいは決して少なくないのではあるまいか。取り分け二楽章以降のフェーリクスが音楽は、時代を二歩、三歩、否、それ以上先取りをするかのようである。彼が天才ゆえに「為せる業」であろう。
 この「スコティッシュ」と呼ばれるイ短調の交響曲は、完成されたる彼最後の交響曲である。

平準的「欧州人」フェーリクス・メンデルスゾーン=バルトルディ。宗旨出自は本質を穿たず。

 フェーリクスは少年期に、弦楽合奏のための謂わば「シンフォニア」を十三タイトルものしているが、ほぼ間を置くこともなく管弦楽のためのハ短調交響曲を1824年に作曲、当初は先行シンフォニア的作品が後続作たるとて「第十三番」との通し番号を付すも(ちなみに十三番目のシンフォニアは一楽章のみにて放棄されている)一転考えを改め、管弦楽になるそれを第一番としている。その後のフェーリクスは、未完あるいは放棄をされし二作品を除けば、五番までナンバリングを施されたる完成作品を遺すのであるが、先述「三番」が完成されし最後のそれなる事情より推し計り得る通り、作曲年代とナンバリングは一致してはいない。一番〜五番のうち、フェーリクス生前に出版をされたのは一番〜三番までである。
 作曲順にて追うなら、一番に次いで完成をされたのが「機会音楽」たる第五番「宗教改革」(アウクスブルクにおける神聖ローマ帝国議会への、ルター派による最後通牒とも謂うべき「信仰告白」宣言三百周年を記念する作品。フェーリクス生前の演奏は初演の一度のみ)、その後、29年のイングランド・スコットランド訪問を契機にイ短調へと取り掛かるも中断をされ、翌30年のイタリア旅行中に四番「イタリア」をものし、指揮者としての多忙から交響曲作家としては暫しの沈黙を余儀なくされるも、40年に到り再び機会音楽(グーテンベルク活版印刷発明四百周年)たるカンタータ的記念碑大作としての第二番「讃歌」を世に出す。
 そして41年、三十二歳のフェーリクスは長らく抛擲ほうてきをしたるイ短調へと本腰を入れて取り組み、明くる42年早々に完成をさせる。

普遍的「欧州人」が表現と作法──交響曲の本流

 まさに気力横溢きりょくおういつせる時期の傑作であろう。全楽章をアタッカにて繋ぐも前衛的実験とは無縁であり、しかしながら時代が最先端を行くこの交響曲は、作曲技法のみに止まらず管弦楽法の巧みさも光る。とてもベートーフェン的「二管編成」になるそれとは思えぬ充実ぶりである(トロンボーンさえ用いてはいない)。作曲及び和声法を弁える向きならピンと来るとは思うが、ベートーフェンより仄聞ほのきこえし「アンバランスな清澄さ」は、管弦楽法以前としての和声法運用におけるルートヴィヒの「層的薄さ」が結果であるが、一方でフェーリクスは「完全無欠」なるがゆえに、後期ベートーフェンとほぼ同規模のオーケストラを以てして、盛期ロマン派を予感させる豊穣なサウンドをさえ現出しているのである。
 加えてこのイ短調「スコティッシュ」の特筆すべきを重ねて挙げるなれば、全四楽章いずれもソナタ形式にて構築・設計される点であろうか。それでいて巧みにも使い分けられる表情の幅広さ──なれば彼は、例えばシューマンがニ短調交響曲にて採用をする有機的統合という新たなるイディオムにはも呉れず、優れてバランスに富む「新たなる交響的思潮」を従来的枠組みのみにて追究し、その高みへと到らしめたのであると仮にも提起して猶、彼フェーリクスがアマーデオを超える天才である証左がゆえなる絶対解が導きし結論へと到る「イ短調」なるは明白である。

動画とタイムライン

https://www.youtube.com/watch?v=SHbn1prRejs

  • 00:00:00 オープニング

  • 00:00:33 モーツアルト:交響曲第四十一番ハ長調 Kv 551 「ジュピター」第一楽章

  • 00:12:15 モーツアルト:交響曲第四十一番ハ長調 Kv 551 「ジュピター」第二楽章

  • 00:22:43 モーツアルト:交響曲第四十一番ハ長調 Kv 551 「ジュピター」第三楽章

  • 00:27:01 モーツアルト:交響曲第四十一番ハ長調 Kv 551 「ジュピター」第四楽章

  • 00:38:44 メンデルスゾーン=バルトルディ:交響曲第三番イ短調 op.54 「スコティッシュ」第一楽章

  • 00:55:11 メンデルスゾーン=バルトルディ:交響曲第三番イ短調 op.54 「スコティッシュ」第二楽章

  • 00:59:30 メンデルスゾーン=バルトルディ:交響曲第三番イ短調 op.54 「スコティッシュ」第三楽章

  • 01:08:51 メンデルスゾーン=バルトルディ:交響曲第三番イ短調 op.54 「スコティッシュ」第四楽章

 フランス・ブリュッヘン&18世紀オーケストラ

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