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【読書日記】わたしたちが孤児だったころ
「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ
イシグロさんの作品は好きで、全部とは言えないけれど、何作か読んでいる。
いつも「支離滅裂」で、
この「支離滅裂」を計算した上でやってるのが凄い。
第一次世界大戦頃、幼少期を「わたし」は上海で過ごす。しかし、突然両親が失踪し、英国のおばさんのところに送り返される。やがて彼は有名な探偵となって、上海に両親を探すために再びやってくる。
とまぁ、あらすじとしては探偵もの、と思うけれど、ぜーんぜんそうではない。
「わたし」目線で進行していく物語は、
「わたし」の記憶をもとに進行していく。
それは「主観」で、決して「客観」ではないのだ、と
カズオさんの本を読んでいると、ガツンと頭を殴られたように
思い知らされる。
『私の記憶が確かなら…』とか
『私の思い違いかもしれないが』という言葉が挟まれ、
時折、挟まれる登場人物たちによって交わされる会話で
「わたし」と共に、読み手も否応なく違和感を感じる。
こういう主観の曖昧さは
「日の名残り」や「浮世の画家」にも描かれていた。
この頭が混乱しそうな、
実際は…ほんとうのところは「わたし」は人からどういう風に見られていて、「わたし」とはどういう人間なのかという問いは
私自身も時々考える。(普段は忘れてるけど)
でも、考える、のとこうして物語に表現していくことは
全然別で、相当高度な技術なんだろうなーと
呑気に考える。
でも、そこに重きを置いてないんだな。
「わたし」とは…と主人公が考えているわけではない。
「わたし」が確かにいつもアイデンティティも求めているようにも
思うけれど、決して考えこんでいるわけではなく、
他のことに頭を悩ませているはずなのに、
そう思わせることが凄いというか…
それから、ミスターイシグロおなじみの
「支離滅裂展開」。今回も上海に降り立った辺りから炸裂。
これもまた「わたし」の「主観」という「思い込み」のなせる技なのか…
解説には「信頼できない語り手」とありました。
なるほど。
イシグロさんの世界観は独特で、
語り口調とか、文脈とか翻訳と原文で違ったりするんだろうか。
原文が違ったところで分からないけどな!とか
自虐的に思いながら。
「日の名残り」「わたしを離さないで」など今まで読んだものは
土屋政雄という人が訳していたようだったので、
今回入江真佐子さんという訳者だったので
どうなのかな、と思いつつ、私には結局違いは分からないのだけど。
入り込むのに数週間かかり、次の本が図書館に届いて
やっとお尻に火がつく…結果、面白いけれど、
テンションと余裕に左右されてしまうのが
イシグロワールドです。(私にとって)
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