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その「強さ」は大丈夫?
前回、「やさしすぎるって何だろう?」という問いについてぐるぐる考えてみたけど、今回は「強さ」について考えてみようと思う。
この記事でいう「強さ」とは、辞書的な意味に縛られず、「強さ」という言葉が日常生活でどのように響いているのか、染み込んでいるのかに着眼して自分なりに捉えてみたものだ。言ってみれば「見せかけの強さ」ということかもしれない。
日常の中で、あるいはネットで、「強さ」という言葉はどのように消費されているだろう。私が思い当たる「強さ」の特性をいくつか挙げてみるところから始めてみたい。
・競争に勝つこと
・自分は正しいと思って振る舞うこと
・揺るがないこと
・多くの人に靡かれること
・決定権を持っていること
まだあるような気もするけれど、上で挙げてみた「強さ」の特性について少し深く考えてみたい。
まず、人は競争に勝つための「強さ」を手にしようとするとき、何をすることになるだろう。スポーツなど競技事を除いた場合、私は「すべての人を切り捨てない」姿勢の欠落が発生すると思う。「すべての人を切り捨てない」姿勢というのは、競争を制することを目的に行動する人にとってマイナスになる姿勢であり、足枷である。自分の目的を達成させるために弱い立場にいる人のことを慮ることはしない。
それは「優しさ」を手放すことだ。競争は「強い人」と「弱い人」を作り出してしまう側面が少なからずあると思う。そして競争に勝ち抜くことのみを目的に行動する「強く」あろうとする人は、「弱い人」をさらに「弱く」しようと行動する。時に、弱い立場にある人を「自己責任だ」という言葉で劣った存在であるかのように仕向ける。そうして自分の「強さ」をさらに強固にする。これは「優しさ」を手放さないと取れない行動ではないだろうか。あるいは、「優しさ」を持った人を「弱者」にする行動ということもできる。自分が手放した「優しさ」を持つ人は、言ってしまえば目障りな存在なのだろう。「強い人」は優しい人を包摂しない。
また、「強い人」は、自分を絶対的に正しい存在と信じ込み、振る舞う。そしてその振る舞いを、弱い立場にある人に対して振りかざす。それは、SNS で実際によく見る光景だと思う。何十万人、何百万人のフォロワーがいるインフルエンサー、時として公職に就く人の一部が、弱い立場にある人への攻撃を繰り返しているのが SNS の現状だ。
そして、「強い人」はその立場から自分が降りることを徹底的に嫌う。反省するのが「負け」であるかのように主張を変えない。その行為は弱い立場にある人をさらに追い込むことだけれども、いったん出した主張を引き下げない。自分が変わってしまうことを恐れ、現状の自分に固着する。揺るがない姿勢を他者に見せることで「強さ」を維持したり強化しようとする。
そして、「強い人」の揺るがない姿、強い言葉で何かを言い切っていしまう姿というものに、靡いてしまう人がとても多いというのが現状ではないだろうか。その状況は、靡いてしまった人にとっては服従であるし、「強い人」にとっては、自分の行動のエネルギーになり、新たな求心力になる。「強い人」に吸収されてしまった人は、「強い人」の言動が指針になり、「強い人」の言葉を「正解」として受け取る。その頃には「本当はどうしたかったのか、どう思っていたのか」を忘れてしまう。
そうしているうちに決定権を持つ立場に、「強い人」が溢れかえってしまう。「強い人」は、より強く、弱い立場にある人はより「弱く」なっていく。時としてその「強さ」が「リーダーシップ」と結びついて「強いリーダーシップ」として語られてしまうことがある。
その「強さ」は本当にあなたが望んでいる「強さ」だろうか。もし、その「強さ」に惑わされているとしたら、あまりにも危険ではないだろうか。
それでは、わたしたちは何をすればいいのだろう。
ひとつは、現状の社会のシステムが「強い人」の横暴を許すシステムになっていると気付くことだ。「強い人」がより強く、弱い立場に置かれている人がより「弱く」なっていく競争社会に生きていることを自覚し、それに自分は乗らないという姿勢をできる範囲で示すことが大事ではないだろうか。今、「強い人」がどれだけ人権を無視した行動を取っているかを危機感を持ってよく観察し、そのシステムに乗らないこと、できれば「NO」の声を挙げることだ。
あるいは、「強い人」に靡かない、吸収されないことだ。魅力的な言葉や、巧みな言葉を前にして、一歩引いた姿勢で判断することが大事ではないか。あなたは「強い人」の意見を飲み下すことで安心したいのかもしれない。ただ、それは甘い誘惑である。それは「強い人」が明日も「強い人」でいるための養分でしかない。「あなた」が「あなた」として「あなた」の意志で行動することを手放さないでいてほしい。
そして、「変わること」を決して恐れないでほしい。何かひとつのことを貫くこともそれはそれで素晴らしいことなのかもしれない。ただ、人は、どんな人も完璧に行動できるわけではない。間違え、学習し、そして修正しながら生活してく生き物である。どんなに完璧そうな行動も、言葉も、エラーの可能性を含んでいる。だから誰かの言動を決して鵜呑みにせず、貫き通すことだけを「善し」とせず、自分の意志で変わり続けながら生きることを選んでほしい。目の前の安心を手に取りたい気持ちは、私も分かる。だけれでも、変わり続ける豊かさも私は多少なりとも知っている。どうか、「強さ」に惑わされずにあなたに生きてほしい。