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『虎に翼』の感想

 NHKの朝ドラ『虎に翼』が9月27日、最終回を迎えた。私自身、このドラマが放送されたことで、7時30分 (BSでの放送時間) が楽しみになり、さまざまなシーンでハッとさせられ、涙した。この記事では、『虎に翼』の感想を放送を思い出しながら書いていきたいと思う。


 まず、この作品の中心にあったのは、私たちの生活に固くこびりつく「差別」の問題だったと思う。寅子が生きた時代を描くことで、今を生きる私たちの社会の中に確かにある差別が浮き上がって見えるような、鏡のような作品だった。

 弁護士、裁判官の世界は、物語の序盤では男性にしか座る椅子がなく、女子は結婚して子どもを生むのが当たり前だとされている。家長は男性であり、女性は家事、育児に専念することが当たり前だった。残念ながら、今も家父長制に縛られた社会があり、女性管理職の割合は低い現実があり、女性を結婚、育児に縛り付ける言葉が飛び交う。寅子が生きてきた時代にあった差別は、多くが今に引き継がれてしまっている。『寅に翼』は「今を描く」作品でもあった。

 そして男性がいだく「男らしく」という言葉にも疑問符を付けた。直明が進学をせず、猪爪家の「大黒柱」になろうという場面で、寅子は「そんなものにならなくてもいい!」と言い放った。家族を金銭的に養うのは男性でなくても良い。作品の中で、家族を金銭的に支えるのは寅子であり、家の中心にいたのは花江だった。その結果、直明は「大黒柱」にはならず、大学に進学して学ぶことができた。

 また、「男性が泣く」シーンが多いことにも気付く。杉田太郎が優未を見て泣き崩れるシーン、航一が総力戦研究所のことを打ち明け嗚咽するシーン。『虎に翼』では「男なら泣くな」という観念に「NO」を突きつけ、いわゆる「男らしさ」を男性から引き離そうとした作品だった。

 さらに、主人公の寅子がいい意味でとても人間くさいところも良かった。優未との関係の作り方も最初は間違えてしまうし、森口美佐江とのコミュニケーションにも失敗してしまう。こういった「間違える主人公」が描かれているのが、ひとりの人間の描き方として誠実だ思った。美佐江のような善悪の区別がつかない、なんとなく遠ざけてしまいたくなる存在も「たしかに存在し、私たちと同じ人間である」という捉え直し (美佐江とは対話ができず、美佐江は亡くなってしまったが、美雪の前ではしっかりとした対話を試みている) があった。

 障害者となったことで自分が涼子の重荷になっていると感じた玉、専業主婦であることでエリートである寅子たちとは違う、自分の立場は分かってはくれないと漏らした花江、朝鮮人であることで苦しむ崔香淑と、そのルーツを知ることになる薫。同性愛者である轟。こういった人たちが作品のなかで「確かにいる人、確かにある苦しみ」として登場したのも良かった。もちろん、「もっと描きたかった」「他の境遇にいる人も登場させたかった」など制作陣の中でそういった思いもあったかもしれないけど、「この作品に登場する人は誰一人として取り残さない」という姿勢が見られたので、誠実なドラマとして安心して見られたところは大きい。ドラマの中で「今まで”いない”とされてきた人が、確かにいる」ことが描かれた。

 細かいところではあるけど重要だなと感じたのは、戦争に向かう空気が人々の生活・風景に侵食していくところが描かれている点だ。(※細かい表現の違いは容赦していただきたい) 「日本国民なら贅沢はできないはずだ」という看板が戦前の街の風景として描かれていたり、戦況を伝えるラジオが流れる中で直人と直治が銃で撃ち合うような遊びをしていたり。日々の暮らしの中に、風景の中に、戦争の色が差し込まれていく。そして、実際に戦争が始まってしまう。このようなシーンからも私はゾッとしたものを感じた。

 最後に、『虎に翼』の大きな特徴として……、やはり「面白かった」という点は挙げておきたい。登場人物ひとりひとりのキャラクター、動き、セリフ、アドリブ (どこからがアドリブなのか、実際のところは分からないが)。俳優や制作陣が「面白い」にもこだわって作ったということが伝わったドラマでもあった。

 『虎に翼』が朝ドラとして流れたのはとても大きい意味を持つと思う。とても良かった。ただ、同時に、寅子が生きた時代から引き継いでしまった、こびりついたこの差別の数々を、社会から引き剥がす時が来ている。いや、ずっと「その時」は流れたまま放置されている。政治も、社会構造もあまりにも歪なままだ。それに気付いて、学んで、時に声を上げよう。それを市民社会にも投げかけた名作ドラマだと思う。



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