世界を変える思想=『テクノ・リバタリアン』とは?(読書メモ)
『テクノ・リバタリアン』とは?
戦争や内乱では武力が、貧しい社会では身分のような既得権が生き残るために必須だが、世界がゆたかで平和になればこれらは無用の長物になり、人種や国籍、出自、性別、性的指向などとは関係なく、一人ひとりの能力だけが公正に評価されるようになる。リベラルな社会の根幹をなすこの原理がメリトクラシーだ。
功利主義は、正義の感情的基盤とは関係なく合理性によって幸福を最大化できる制度を構築しようとするから、ある面では正義感覚と一致するとしても、多くの場合、ひとびとの感情を逆なでする。
テクノ・リバタリアンは、自由を重視する功利主義者のうち、きわめて高い論理・数学的能力をもつ者たちのことだ。
シリコン・バレーの成功者『ハイパー・システマイザー』とは?
脳の覚醒度を上げようとする「とてつもなく強力なエンジン」をもっていることに加えて、マスクは(ハイパー・システマイザーの代償として)共感力が低く、部下を無慈悲に解雇することになんの躊躇もない(さらにはそれを、経営者にとっての必須の能力だと考えている)。それに異常な集中力、軽躁状態(ふだんは躁状態だが、気分の変動が激しく、ときに抑うつ状態に陥る)、強迫神経症的なこだわり、なにがなんでもやりとげる強烈な意志力が加わったと考えると、その特異なキャラクターをうまく理解できるだろう。
こうして、つねに追い立てられているような切迫感に苛まれ、どのような成功にも満たされることなく、ひたすら走りつづけなくてはならなくなった。
私たちは「死の恐怖」から逃れたがっている
存在脅威管理理論は、平穏な日常生活を送るために、わたしたちはなんとかして「死の恐怖(存在脅威)」を抑え込み、管理しなければならないとする。そんな安全装置のひとつが、自分たちは道徳世界に包摂され、守られているという安心感だ。
これまで、人類が死という理不尽な運命に対処する方法は宗教(神)しかなかった。それが科学とテクノロジーによって代替できるなら、宗教の意味はなくなる。トランスヒューマニズムの時代には、ひとびとはもはや神を信ずることはなくなり、その代わり「技術時代の宗教を超えた宗教」すなわちトランスレリジョン(超宗教)を崇めることになるのかもしれない。
メディアの未来
ユーザーの時間資源は有限なので、あるコンテンツに時間を消費すると、別のコンテンツに割く時間がなくなる。情報空間に玉石混交のコンテンツが溢れ、競争が激化すれば、コンテンツあたりの収益率は下がらざるを得ない。この条件では、コスト(生活を維持するのに必要なお金)が小さな個人が圧倒的に有利だ。
この競争に勝つ方法のひとつは、Netlix がやっているように、コンテンツ制作に巨額の費用を投じ、個人のコンテンツと圧倒的な差をつけることだ。ユーザーは、同じ時間資源を投じるのなら、より豪華なコンテンツを楽しみたいと思うだろう。
しかしそうなると、制作予算のない会社はどうすればいいのか。これがいま、日本のすべてのメディアが直面する課題だ。
日本で無視されているリバタリアニズム
日本の会社で合理化・効率化が嫌われるのは、リストラの道具になるからというよりも、これまで安住してきたウェットで差別的な人間関係(日本ではこれが"理想の共同体”とされる)が破壊されてしまうからだ。その結果、日本では右も左も「グローバル資本主義の陰謀から日本的雇用を守れ」と大合唱することになった。
「自由」を恐れ、「合理性」を憎んでいる社会では、リバタリアニズムや功利主義が受け入れられるわけがない。日本ではヨーロッパ哲学やフランス現代思想(ポストモダン)については数え切れないほどの本が出ているが、リバタリアニズムは無視されるか、アメリカに特有の奇妙な信念(トランプ支持者の陰謀論)として切り捨てられている 。
だがリバタリアニズムは、いまや指数関数的に高度化するテクノロジーと結びつき、世界を変える唯一の思想=テクノ・リバタリアニズムへと"進化"している。ところが日本の偏った言論空間に囚われていると、イーロン・マスクやピーター・ティール、あるいはオープンAIのサム・アルトマンやイーサリアムのヴィタリック・ブテリンがリバタリアンであることの意味がまったくわからない。