(詩)追憶ナポリタン
追憶ナポリタン
大きめの鍋に
たっぷりの湯を沸かし
少し多めに塩を入れる
沸騰したらスパゲティを入れ
規定より長めに茹でる
(アルデンテは禁物だ)
茹で上がったらざるに取り
油を軽く振って
しばらく置いておく
フライパンに
オリーブ油を入れて火にかける
薄切りの玉葱 ピーマン ソーセージを炒め
パスタとトマトケチャップを加える
塩胡椒で味を整えれば
昔ながらの喫茶店風
スパゲティ・ナポリタンの出来上がり
湯気の立つパスタを皿に盛り
食卓まで運ぶ
粉チーズとホットソースも忘れずに
午前二時
男ひとりのダイニング
静まり返った家の中
聞こえてくるのは
時計の秒針が時を刻む音のみ
フォークに絡めた麺を頬張ると
ケチャップの甘酸っぱい風味が
口いっぱいに広がる
至福の時
本場イタリアには
ナポリタンというパスタはないそうだ
戦後 進駐軍のアメリカ兵が食べていた
ケチャップで和えたパスタをヒントに
横浜のシェフが考案した料理らしい
それ以来 大衆食として日本中に広まり
ぼくも母が作ったナポリタンを食べて育った
やがて日本でも本格イタリアンの店が一般化したが
今でも時々無性にこの「洋食」が恋しくなり
昔風の喫茶店を探しては食している
時には自分で作ることもあるが
真夜中に作るのは初めてだ
眠れぬ夜も辛いが
そこに空腹が加わると
もうベッドにはいられない
カップ麺では
腹は満たせても
心の飢えは満たせない
どうせ眠れないなら
手間ひまかけて
深夜のおうち喫茶を楽しもう
*
緑色の容器から粉チーズを振りかけると
赤い山の頂が雪で覆われる
子どものころ
うちは裕福ではなかった
ナポリタンにチーズをかけすぎると
勿体ないと母に叱られたものだ
今では山盛りかけても
誰にも叱られない
いや 叱ってくれる人がいなくなった
さらにホットソースを数滴たらすと
刺激的な辛さがパスタの味をきりっと引き立てる
ナポリタンは
学生時代にほのかな好意を抱いていた
あの人の好物でもあった
友だち以上 恋人未満のぼくらは
駅前にあった純喫茶の常連で
マスター自慢のナポリタンを
二人でよく注文したものだ
いつもぼくの方が早く食べ終わり
パスタを器用にフォークに巻いて口に運ぶ
あの人の優雅な仕草を
飽きもせずに眺めていた
食後にぼくはブラックコーヒー
あの人はクリームソーダを飲みながら
本や映画を論じ
将来の夢や人生の意味などについて
とりとめもなく話し続けた
だがそんな会話はどこへも辿り着くことなく
やがてソーダの泡のように消えていき
ぼくらの微妙な関係も
それ以上発展しないまま
卒業後は会うこともなくなった
ナポリタンを食べていると
次々と脳裏に浮かぶ過去の幻影
ぼくはホットソースの瓶をもう一度取り上げ
残りのパスタに力を込めて振りかけた
*
目の前に置かれた空の皿を見つめたまま
ぼくは片付けのタイミングを掴みかねている
食卓から動けなくなったのは
満腹のせいではない
たった今 ぼくが平らげたのは
スパゲティだけではない
それは二度と取り戻せない
甘酸っぱい昔日の思い出だった
腹はくちくなったが
それ以上に胸がいっぱいだ
それを喜ぶべきか悲しむべきか
答えは出ない
こんなはずではなかった
日常の中の
ちょっとした贅沢のつもりだったのに……
ぼくはようやく立ち上がると
皿とフォークを流しへ運んだ
それでもやはり
作って良かったのだろう
喪失感が大きいほど
失ったものの大切さを
再確認できるのだから
過去は失われても
心に残されたその痕跡は
消えることがない
その痕を指でなぞるとき
微かな疼きとともに
静かな感慨が生まれる
スパゲティ・ナポリタンは
過去へと誘う不思議な食べ物
だがその魔法のレシピには
注意書きがついている
「夜中にひとりで作ること」
(2021年 6月28日 MY DEAR 投稿作・改訂済)