見出し画像

続 怪我が教えてくれたこと

先日腰を痛めた後の練習で気づいたこと。

以前の私は腰を痛めたら、練習をやるか、やらないかの二択。
つまり0か100か、でした。

だけど今は自然にマットに立ってみて、やれるだけの練習をしてみる。
やってみると全然前屈できなくて、股関節からの屈曲もできず、足も一歩運んでこれず、なので全くいつもの太陽礼拝はできませんでしたが、それでも軸の意識、末端の意識、呼吸の意識、痛い腰にも細心の注意を払って今できうる限りの太陽礼拝をしてみました。

そうすると、いつも身体の伸び任せで過ぎていた箇所を意識でき、使っていなかった場所を使うことができ、何よりも呼吸がいつも以上に深まっていくのを感じました。

ヨガはポーズの形ではない、まさにそれを体感。

Sthira Sukham Asanam(ヨーガ・スートラ 2-46)
スティラ スッカ アーサナム(アーサナとは快適で安定したものである)

今ある環境、与えられた状況の中での最善最適な取り組みが快適と安定を見つけていくのです。

0か100かの時には、私が自分の拠り所にしていたのは
・身体が自由に動く私
・ポーズが取れる私
・健康である私
でした。条件付きの私への執着でした。
だから怪我をして、その拠り所を失うと一気にガタンと崩れます。

今のわたしは、自分の拠り所がただの”わたし”そのもの。
怪我をしていても、調子が悪くても”わたし”はわたしであり、それが安定的な練習の継続にも繋がり、やるかやらないかだけではなく”やれるだけやってみる”という自分の可能性やチャレンジを広げてくれていると感じています。

そして健康であることや身体が自由に動くことが当たり前ではなく自然に感謝が生まれます。失って初めてありがたいと気づくのではなく、当たり前の毎日がとてもありがたいこと。
そう思って過ごす時、日常生活での一つ一つの選択が自然に自分を大切にするものになっていくのではないでしょうか。

外側から見たポーズにとらわれず、内面的な意識や自分自身への丁寧な取り組みそのものがヨガの美しさ。だから、いくつになっても身体が思うように動けなくなっても、誰にとってもヨガはあるのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?