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天秤座新月の心の統合と気づきとつぶやき

本日、10/3(木)天秤座で、新月を迎えました🌚
私はこの数日間、心がとてもソワソワ、
心の中で聴こえる言葉は「早く変わらなきゃ!」でした。
とても恵まれている環境にいるのに、
私は今、この状況に居心地の悪さを感じていました。

今日はそんな内面のモヤモヤを自分で探ってみる統合日記です。
ご興味ありましたら、お読みください😊

変わりたいのに、変わりたくない、この矛盾した気持ちは何だろう?

思い出されるのが、子供の頃、確か3歳くらいの時、
スイミングで飛び込みの練習をさせられました。

私はとてもビビりな女の子でした。
「飛び込みはやだよー😭」と号泣して、飛び込み台の前で地団駄を踏んでいたのを思い出しました。
母はその姿を可哀想と思いながら見守っていたそう。

私はなぜ、頑なに飛び込みを恐れていたのかというと、
飛び込みした時、水面にお腹を打って痛かった経験と
鼻に水が入って痛くて不快だったのです。
その体験を思い出して頑なに拒否してました。
でも結局最後には、コーチに腕を引きずられて、半ば強制的に突き落とされ飛び込むことになりました。
飛び込んでみたら、確かに鼻に水が入ってツーンとなって嫌だったけど、
耐えられない痛みではないということを徐々に感じられてき、
数年後、バンバン飛び込みする競泳選手になっていました。

飛び込んだら一瞬なのに、どうしてこうも地団駄を踏むのでしょうか💦

以前、ノウイングスクールで、変化は生物にとって生存に関わること、
スピリット(魂)が変わりたいと思っても、ボディ(肉体)は生き残りのために安心安全を望んでいるから変化が怖い、人間という存在は、ボディ(肉体)・マインド(思考)・スピリット(魂)三位一体だから、そこに葛藤が生まれるとのことを学びました。

自分という存在というのは、この異なる次元を生きている3つが共同してると考えると、誰か一人が、「私、やっぱ変わりたくない><(ボディ:妹)」って言い始めて座り込まれたら、残された2人もそりゃあ、ソワソワ。

さて、どうするか、、、
もちろん一心同体だから、置いて行けないから、
妹を励ましたり、怖くないことを言い聞かせて少しづつ進むしかないのかもしれません。妹だって内心分かっているのです。行かなきゃならないことに。
「大丈夫だよ、今までも変わってきたじゃないか^^(マインド:兄貴)」
「結局行くのは分かってるはずよね✨さあ、行こう(スピリット:次元が違うから天使的な存在)」

こんなボディ・マインド・スピリットたちの会話が、ここ数日、私の中で繰り広げられていました。

これが心のソワソワの正体なのだと推測してみました。

妹が怖がっているものの正体は?

妹はなぜ、そんなに怖がっているのでしょうか?

ボディの妹は、実は一番脆い存在。有限の時の中を必死に生きているビビりなのだ。でも、そんなビビりな妹は、いち早く身の危険を察知できるという能力も持っている。
我が身を第一に、大切な身体を守るために、生き残るためを常に周囲の状況に敏感なんでしょう。

人間は集団で生きてきた生き物だと考えると、仲間外れだったり、孤独になることも恐れているのかもしれません。

か弱い妹が生きていくためには、他者から愛され守られたり、
協力して生きていかなければならないとDNAに刻み込まれている。
わざわざ今いる安心安全の場所を、危険を犯してまで離れたくないのでしょう。

時には粗治療も効果的だが、徐々に体を慣れさせるように変わっていくのがトラウマなどを残さない安全な変化の仕方なんだと思います。

妹は急激な変化にびっくりしてしまうタイプだから。
時々きっとタフな妹も中にはいるかもしれませんが、私の妹はビビりのようです。

言葉の解釈や、これまでに培った自分の信念が変化を阻害している

さて、そんな変化におっかなびっくりの妹をなだめながら、
私はこの先、どうしたいの?と自分に問いを投げかけました。

私は仕事も、パートナーシップも、住んでる場所も
今よりももっと自分が望んだ方向にシフトしたいと思っているけど
何かが足枷になっているような気がしてなりません。

その一つに、これまで「サントーシャ=足るを知る」という
ヨガの哲学が私の信念の一部となっていて、大事な考え方である一方、これが変わらないことの理由づけの一つにもなってしまっているのだと感じられました。
この教えは、必要以上に貪るようなことに対しての戒めであることを再確認しました。現状に甘んじていることを良しとする解釈ではない。

言葉は時に、解釈を間違えてインプットしてしまい、思考を限定してしまうものだと思いました。

どちらも否定しない視点が大事

また、二元性に囚われてしまうことがあるなと感じられました。
好き、嫌い、良い、悪い、
それが、自分の中の価値観になってしまったら、もう一方の価値観が受け入れられなくなってしまう。
受け入れられないもう半分は?それがもし、自分自身の中にもあったとしたら?
それは、自分の中のもう半分を受け入れられないことになる。

だから、やはり中庸という視点が大事なんだろうと思ったのです。

両極の視点を持ちながらも、どちらも否定しないことが大事なのだと感じられました。
自分や他者の中の無限の可能性を信じながらも、
誇大評価しない、期待し過ぎない視点が大事なのだと。

肉体という有限と、魂という永遠不滅(ヨガ哲学ではそう言われています)の存在を、同時に内在している人という存在が、
自らと他者と上手くバランスを取って生きていくには
常にこの二つの視点で、流れるように変化を楽しんでいけたらいいなと思いました。

誰かを羨やむ気持ち、それはそう慣れなかった自分自身への怒り

ちょうど、新月の占いのある動画を見ていた時に、
「誰かを羨ましいと思う気持ちは、実はその人に対して抱いている感情ではなく、自分もそれになりたいと思っていたのに、なれていない、手に入れていない現実の自分に対して苛立ちや怒りを感じているのだ。」
という解釈をされていて、全くその通りだなと思ったのです。

今思うと、私はその点では小さい頃から恵まれていて、
両親から愛情や個性や承認など、沢山のものを受け取っていたからなのか、他の人の才能をリスペクトはするが、羨ましいと思ったことがない。
母の思考が強く影響していることもあり、本質的には自分は自分、他人は他人だよという考えを形成していったと思います。
でも、極端に自分と他人を切り分けるのも良くないのかもしれない。

羨ましいと思う人の心理はきっと、
「あの人と私は同じなのに、あの人はあれを持っているのに、私はまだ持っていない。悔しい。」
この「悔しい」という感情が、相手に向かって敵意を表したりしているのは間違っているということなのかもしれない。
深く自分の気持ちにつながると、
「私が持っていないのが悔しい」と自分がそこにまだ到達できていない現状の悔しさや怒りを感じているのが湧き上がる感情の起源なのでしょう。

これを理解していることで、救われるのは自分自身なのでしょう。
そして、そんな人の感情を感じ取っても、
その人自身の成長の問題として見ることができるのだと思えます。

「この人は、私に自分自身を投影して、悲しんだり、怒ったりしているのだ。」とこちらは見守ることができる。

でも、自分が羨ましがられると罪悪感を感じていたのです。
そこには、「みんなが幸せであるためには、平等でなくてはならない。」
という信念がそう感じさせていたんだと思うのです。

そもそも平等ってなんだろう??と。
不公平だと言う人もいれば、権利は平等に与えられているから、
それを望む望まないの差であるとも考える人もいる。

その答えを出すのは、とても難しいかもしれない。
でも、今は人類の歴史上、一番可能性が沢山ある時代なんだろうと思う。
それを活かすも活かさぬも自分次第。
他人の自由を奪わぬ限り、誰にも邪魔されることもない。
やはり、制限をかけているのは、自分の中の小さな自我意識からくるもの。

だから、幸せになりたいと思う気持ちは、誰に遠慮を感じるものでもないはず。
自分の幸せを願うことは、人の幸せを願うことと同じ。
人の幸せを願いえないのは、自分の幸せも制限をかけているということ。

だから、誰かの幸せを心から願うことが、自分の幸せに繋がっていく第一歩。自分に幸せになる許可を与えてあげないとですね。

結局人生は、おそらく何者でもない自分自身を受け入れる、統合の旅路なのだろうと今は思う

嫌いな相手をいくら見ないようにしたとしても、実は問題は自分の内面のシャドウである。そのレッテルを相手に貼り付けたとたんに、自分のもう側面のシャドウを否定したことになる。

自分の肩書きも限定的な言葉だから、
自分が何者かをアピールするには都合が良いけれど、それも自分という存在を限定してしまっているように私は感じられてしまいます。

以前、ヨガインスタラクターの仕事をしようと面接に行った時に、
「これからヨガだけを仕事にしていきたいですか?」と質問された時に、
心がもやっとしました。
私はヨガは好きだけど、ヨガだけやる人生ではいたくないと素直に思ったからです。
その面接した人は、きっと私の本気度を試したかったのかもしれないけど、
私もその質問でヨガだけが私の全てじゃないと気がついたんです。
そして、色々やっていることを受け入れてくれるような考えを自分は望んでいるんだということがわかったのです。

それだけに打ち込みたい人もいれば、色々やっている方がイキイキできる人もいる。自分に嘘をついて過ごしても、いつか耐えられなくなる時がやってくる。また、人の考えだって移り変わっていくものだから。

肩書きも、あるとかっこいいし、上手に使えればいいけど
肩書きに振り回されて自分という存在を狭めてはいけないのだなと思ったのです。
そして、ふと思ったのが、人は何者かになろうとして、
道中で自分の影の部分を受け入れて、最後に行き着く先というのは、
何者でもない自分自身を受け入れる旅路なんじゃないかって。

私は多分まだそこまで到達してないから断定はできないけれど、
何も無くたって、どんな状況や場所、人前でも自分という存在で心地良くいられる。地位や名誉、お金、友達、何にも持ってなくても自分の価値を認められる状態だったとしても。だからと言って出家することを勧めているわけではなく、そんな風に、何か自分を定義づけしてなかったとしても、自分の価値が自分で認められている状態、これは自己覚知の状態だとふと気がついた。だから、他の人の価値も同じように認められる。

ふと気になって、久しぶりのノウイングのテキストを開いてみて、目に止まった言葉たち。

人生は能力の問題ではありません。人生とは心からこうありたいと思う積極的な気持ち ー 意欲(ウィリングネス)の問題なのです。私たちが欲しいものを手に入れるために自ら積極的にやってみようと思うことが、モラルの境界線を作っていきます。模範となる人間もまた、どのような環境や状況下においても自分自身としての全体性を持ち、完全にそこに存在したいという絶対的な意欲が、その人の境界線を形づくります。
忘れないでください。覚知した人は、「偉大で高潔な真理」で他の人の考えを変えようとはしません。逆に、他者の信じている真理を大切にしながら、自己覚知そのものを示すのです。同時に自身が罠にはまったり周囲に展開するドラマに巻き込まれたりはしません。
自己覚知の芸術(アート)とは、相手をまったく損なうことなく、自分自身がパワフルになることです。覚醒へのプロセスは、本当に人それぞれです。あなたが中道 ー 「あれでもなくこれでもない場所」に存在して、道に浅い足跡を残し、あなたのハートを感謝でみたすなら、覚醒までの道のりは短くなるでしょう

叡智の道「叡智と日常の統合」 ゲリーボーネル著

このタイミングで、この言葉が目の前に現れるのは、きっと私の決意表明が外側に現れているような気がしてきました。

そういえば、この話もノウイングスクールで話していたことだったなと思い出しながら、私がこれから提供するサービスも、そこに向かって歩んでいくのだなと思った天秤座新月。

古代エジプトの神アヌビスは、亡くなった人の心臓と、「マートの羽」を秤にかけるのを監督します。そして叡智の神であるトトは、その結果を記録するのです。象徴的に、覚知した人の心臓は羽と同じ重さしかありません。葛藤の重さがなく、ハートが無垢だからです。

叡智の道「叡智と日常の統合」 ゲリーボーネル著

どうやら、私の今回の天秤座新月は、今後の私がやろうとしていることの序章で、再びやりのこした課題に取り組むことだったようです。

自分の無力さや、可能性、どちらも感じながら、その間で振り子のように揺れ動く感情を静かに見つめながらも、普通の私であることも楽しむ余裕を持っていきたいです😊

そして、なんだか統合できた好転反応でしょうか💦
このnoteがまとまり終えたあたりから、急に寒気で身体がだるくなってきました😢季節の変わり目でもあるので、体調管理は気をつけなければ。

今夜はゆっくり寝て、体を休めたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました🙏
皆様も良い新月をお過ごしください🌚✨

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