【日本語】新人日本語教師が「やりがちなこと」3選と、「やらない」ための考え方
元日本語教師で、今はIT企業で人事をしています。最近重い腰をあげて、文法項目ごとに教案やら教材やらを整理しています。ド新人時代の先輩からの「赤」がびっしり入った教案。初心を忘れないために、ずっと持っています。
今日は新人教師の頃にやらかしたこと、そのやらかしの何が悪いか気づかなかったこと、から考えた「やっちゃいけないけどやりがちなこと」、書いてみます。
私の初任地は台湾の日本語学校でした。新人教師には『みんなの日本語初級I』の1課から25課までの教案を書いて、週2回、昼休みに先輩教師の前で模擬授業をする、という研修があり、それはそれはヘビーでした。全ての教案を一から作る状態なので、1週間に2課進むのだけでもキツく、普段の授業も行いながら模擬授業の準備もしなければならないので、朝方まで眠れない日が続きました。(忙し過ぎたおかげで、ホームシックにならずにすみましたが)。教案はまる1課分書き、模擬授業は「じゃあ、ここやってみて」って言われたところだけ30分くらいやるんですが、先輩たちも同じことをやってきただけあって、わかんなくてうやむやにしたところや、詰められてないところを指定するんですよね。今となっては、苦労しないためにやってくれてたってわかりますが、ホント毎回お腹痛くなるくらい辛かったです。
教案が「教師用指導書」の丸パクリ。
あんなふうに、スンと授業が進むわけがない。
ここで私がしばらくの間やらかしていたこと、それは『教師用指導書』の丸パクリのまま教案を書いていたこと、です。ちょっとだけオリジナル風の練習を入れたり、登場人物をその国の人物に変えたり、といった小手先の(当時の私からしたら)工夫のようなものとごちゃ混ぜにして、なんとか形を保つ、という程度のものでした。養成講座や模擬授業では教案を書いたことはあるけれど、実際に学習者に教えた経験はほとんどなかったので、今思えばびっくりしてしまうけれど、指導書のようにすんなり進むのかなとどこかで思っていたし、バンバン質問されるなんて、理解してもらえなくて進まないことがあるなんて、考えもしていなかったんです。この後少しして、実際の教壇に立つ機会が増えてくると、気づきます。「指導書は、ほんっとうに役に立たない。」と。修論のテーマを「教師用指導書」にしようとしていたくらいです。絶対の信頼を寄せいていたからこその失望からの反発。勝手に信じて勝手に失望してるだけなんですけどね。今は指導書を見ることはほとんどなくなりましたが、その教科書の特性や意図された使い方をきちんと理解したり、イメージを掴むためには必要なものだと、今は理解できます。ただ、当時はそういう使い方ができていなかったのです。目の前の学習者だったらどう理解するだろうか?と考えて使えていればよかったのです。
学習者の母語で板書して説明したつもり。意味が微妙に違っても気にせず、安易に必殺技みたいに書く。
そして、もう一つ、漢字が使えるからといってやっていたよくない行いがあります。困った時に、中国語で(漢字で)文法の意味とか言葉の書いて説明を済まそうとしていたこと、です。「〜なければなりません」(義務)とか、「あげます」(給)「くれます」(別人給)とか。それでドンピシャなものもあると思うけれど、それが普通だと思って進めていたら、合致しない時に学習者は誤解して覚えてしまうし、母語ではっきり提示されたらどうしてもそれがビビッドにうつってしまう。そして、なんでも母語で翻訳できると思ってしまう。(そんなことは絶対にない!)自分で説明が考えられないから、そこまで落とし込んでいないから、安易に訳して書いておけばまぁわかるでしょ、という自分を殴りたいです。曲がりなりにもお金をいただいている人間がやることではありませんでした。きっと当時は、何を理解してもらわないといけないのかも、どう説明したらそれが伝わるのかも、何に気を付けて伝えないといけないのかもわからなかったのでしょうね。「その文法の意味を伝えて、言いたいことをそこにのせて言ってもらう、わいわい楽しげに。」⇦この中の、後半のことしか考えられていなかったです。「わいわい楽しげに」がメインになってしまっていて、意味があるのかないのかわからない不思議な練習を量産していました。大事なところを蔑ろにして。
当時の学生には謝っても謝り切れないですが、なんとか教案を完成させなくちゃの一心だったのは確かです。先輩は本当に怖かった。そして、しばらくの間は先輩たちの指摘の意味もわかってなかったです。自分の授業を見てもらってるのに、置いてきぼりになってることがよくありました。
準備したものは必要とされていなくてもいつも全部載せ。楽しげ至上主義、教師のプレゼンタイム化している。
2年を過ぎた頃からは、少しずつどう、何を伝えるべきかを学習し始め、練習にもオリジナリティを出し始めました。自分なりに文法について調べて、例外や注意点も把握して、教案にしっかり書いて、学生にも伝えて、練習も色んなの考えて手を変え品を変え、いろんなことやってみてました。学生たちから「老師很有親和力(先生は親しみやすい)」って言われていい先生になった気分でいました。今思えば、自分のためにやっていたと言われても過言ではない授業でしたね。私の準備してきたことのお披露目会?オンステージなの?的な。この時代の私のやらかしは、学習者の疑問や質問に答えることの大切さに気づかずうやむやにして、自分が準備したものは全部出して、なんとか楽しげに授業できれば良いと思っていたことです。最高に罪深いです。なんて自分勝手でドリーミングなのか。教師用指導書の世界みたいに、なんの問題も起きずに最後まですんなりいける流れにちょっと自分風味を入れて、できる気になって楽しんでたんですね。でも、その時はそれが悪いなんてちっとも気がつかずに、すごく一生懸命やっていたんです。この後数年して、だんだんと学習者のことが見えてくるようになります。(がんばれ、私!)
その後、私も経験を積み、修行を重ね、いろいろな場所で他の先生や後輩にあたる先生方の授業を見てきましたが、私のやらかしのように、新人教師の頃にやりがちなのは「教師がいかに上手に、準備したとおりにプレゼンするか」になってしまうことです。学習者のことをちゃんと見る余裕がないままに突き進んでしまったり、準備したものは全部出したくなってしまって、強引にすすめてしまったり、出てきた問題を片付けずに流れ通りに持っていこうとしたり、することです。もちろんしっかり準備をして臨むことは重要ですが、学習者のつまづきや疑問を置き去りにして「教師が発表する場」にしてしまってはいけないのです。なぜなら、教師は主役ではないからです。学習者ができるようにならないと意味がないのに、納得いかないまま、つまずいたままの彼らをそのまま無理矢理引っ張って行っても、当然良い結果はついてきません。授業は「学習者が考えて、やってみて、間違えて、直されて、また考えて、を繰り返してやっとつかんで、身につける場」であり、教師は、そのプロセスの提供者、サポートする立場であるべきなんですよね。お客様の要望も聞かずに、自分の売りたいものだけセールスしてくる人からは、何も買いたくならないですからね。
なんでもそうですが、自分で気づいて、考えて、実践したことでないことは右から左へと流れがちです。会社での仕事でも、指示されるがままにこなすだけのタスクはただの作業で、自分の中に何も残らない虚無感があります。(雑務に追われて終わった日に感じるのは「学び」より「消耗」が大きくて、それがすごく自分を疲れさせる気がします。)ただ、仕事ならそれでも歯車の一部として完了できていればよいものもあります。実際そうやって割り切ってやらなきゃいけないことも多いですよね。でも、言葉は違います。誰かがやって完了してることに意味はなくて、絶対に「自分」の中を通して、落とし込んで、身に着けて使えなければ意味がないからです。
「アクティブラーニング」という言葉が、一時期わっと盛り上がりました。
☞「アクティブな学び」
☞「能動的な学び」
☞「受身じゃない学び」
☞「与えられるだけじゃないの学習」
☞「ただ座って聞いてるだけじゃない学び」
どんな説明の仕方でもいいのですが、肝はその時の学習者の頭の中が「アクティブ」な状態になっていること、つまり、自分で考えていることが重要なんですよね。
「アクティブ状態」の極論を言えば、一人で本を読んだり、ゲームをしたりしている時に「どういうことなんだろう?どうしてこうなるんだろう?」と考えていれば「アクティブラーニング」中、ということになるし、みんなで話し合いをしていて、なんとなくアクティブっぽく見えていたって、何にも考えないで「あ、(聞いてなかったけど別に)僕もそう思います!」となってしまってたら、「アクティブ」ではない状態ということになります。さーっとなぞるだけ、心ここに在らずで手を動かしてるだけ、自分の頭や心を使ってない、動かしていない状態で、つまり非アクティブな状態だと学びが促進されないわけです。
だから、教室のように、教える側と教わる側がいるのならば、教える側から提供すべきものは、”考えさせるプロセスがちゃんとある学び”、だと考えています。そういう意味で、新人時代の私はやらかし放題でした。
従来のよくある型の「先生が教壇で教えて、学習者が聞きながらノート取って」っていうのが「悪」なのではなくて、「とにかくこうだから、とにかく覚えなさい」と、考えることをさせないことが「悪」。
なぜなら、主体であるはずの学ぶ人が「アクティブ」じゃないからです。
そう考えると、「アクティブラーニング」って、特に難しい概念じゃなく、わりと当たり前ですね。「アクティブ」じゃない時に人は学べないんです。
どうやったら学習者の頭の中をアクティブ状態に(考えている状態に)持っていけるか、それを考えて実現するのが日本語教師の腕の見せどころで、醍醐味で、ものすごくおもしろいところなのです。
修行を経て、自分自身の授業の考え方も、教案の作り方も使い方も変わりました。今度その辺も書いてみたいと思います。
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