過去に残した傷跡さえ 今は愛しい
昔大好きだったあゆの歌詞にこのフレーズがあったけど、過去に残した傷跡さえ今は愛しいのだろうか?
きっとそんなことはなくて、傷跡がかさぶたになっていて完治する前に間違えて引っ掻いて、再度血が出て、またかさぶたになって、の繰り返しのように思える。
今日は久しぶりに前職の仲良しな方々とオンラインお話会をした。とても楽しかったのだけど、同時にいろいろな情報を知って感傷的な気持ちになった。
私の思い出がつまった事務所や場所がコロナの影響で潰れていること、私に散々負荷をかけさせてきた人達が今は幸せそうに暮らしていること。
私は帰れる場所のひとつを失った。やりたい仕事もやりきれなくなった。病気になって人生設計も大いに崩れた。子どもを産めない身体になった。マイホームなんて夢のまた夢になった。
それなのにどうして私を苦しめた人達は、私から奪ったものを手に入れてるのだろうか。私の努力が足りなかったのかな。不器用すぎて上手にやっていけなかったからかな。
私は昔から母に「あなたは鈍臭いから人が少し努力すればできることを、あなたは人の10倍努力しないと出来ない」と言われ続けてきた。
だから病気で退職することになった会社では、誰よりも努力して売上も常にトップクラスにいたし、人が嫌がることも率先してやっていたし、常に明るく振舞っていた。
それでもまだまだ足りなかったのかな。ただの努力したふりだったのかな。自己満足に過ぎなかったのかな。あとどれくらい努力すれば、今でも会社に残って仕事をして、周りが望むように子どもを産んで、マイホームを建てて、一般の人が望む「幸せな家庭」を築けたのかな?
そんなことを考えていたらお風呂で涙が止まらなかった。子どもは元々欲しい気持ちはそこまで無かったけど、「子どもが欲しい」という思考を持てる心になりたかったな。「マイホームが欲しい」といって、経済状況を心配することなく、楽しく考えられるような生活が送りたかったな。
「世の中口の上手い奴が勝ち残っていくシステムなんだ」と、大好きなミオヤマザキさんの曲の歌詞である。その通りだと思う。私は伝え方が下手だ。だから努力しても努力してもまだまだ足りなかったのだ。
こんなたらればを言っても過去は戻ってこないし、病気なことにも変わりはない。これからをどう歩んでいくかというのが1番の問題である。
過去の傷跡を愛しく思う必要なんてない。何度引っ掻いてもいい。その傷口が生きる原動力になるのなら、いくらでも引っ掻いて痛い思いをしながらでも生き延びてやろうじゃないか。
そんなことを思った今日1日でした。内容が暗くてごめんなさい。それではまた!