「やればできる」が苦しめる
「私の家政婦ナギサさん」というドラマがある。
主人公メイ(多部未華子)は、母親からの「メイならやればできる!」という言葉にがんじがらめにされて生きるキャリアウーマンである。
一応書いておくが、このnoteはメイについて書いたものではない。
他者からの「やればできる」に苦しめられる
人は他者から期待してもらえればありがたいと思うし、他者から認められるのは嬉しい。
結局誰にでも多少は承認欲求なるものがあるからだ。
だが、期待が大きすぎるとどうだろうか。
人はそれを、重圧に....プレッシャーに感じてしまう。
あなたはそう言って私に期待してくれるけれど、実際の私はこんな人間なのに、
できないのに、あなたの期待になんか応えられない人間なのに....と
どんどん苦しめられてしまう。
"やればできる"はある意味魔法の呪文だ。
誰かに「やればできる!」と言われればそれは温かい魔法の言葉だ。
勇気づけられ、頑張ることにつながる。
応援してもらえる、という喜びだって感じる。
でも時にその「やればできる!」は呪いの言葉だ。その他者によって気づけば追い詰められている..なんてこともある。
「やればできる!」はある意味で、「できないとダメでしょ、」なのだ。
例えば親が子供に気づかないうちにすごい重圧をかけていたり.....なんてね。
「あなたはこれができて当然でしょ、あなたなんだから」
そういうものは言葉の呪いである。
自分から自分への「やればできる」が自分を苦しめる
このドラマでも主人公メイは上司に期待され、
自分のことを「私はやればできる女ですから!」という感じに言っているシーンもあった。
誰かから言われた「やればできる」は、外部から言われた言葉のはずなのに、
いつの間にか内在化することがあるような気がする。
気づけば自分で自分に、「私はやればできる人間なんだから」なんて言っていることもあるのではないだろうか。
他者からの期待は、重圧は、自分から自分への言葉になって自分を苦しめる。
"やってもできなかった"時に、自分はダメな人間なんだ、やってもできない人間なんだ、と
どんどん自分を自分で追い込んでしまう。
1つのことができなかっただけなのに、まるで"自分は何をやってもダメなんだ"、と自分を追い詰めてしまう。
「私だってやればできるんだ!」は良い魔法の言葉にも悪い魔法の言葉にもなる。
そしてそれが悪い魔法の言葉となった時、苦しんでいる時、
なかなか人はそれに気づけない時がある。
自分を追い詰めすぎてしまう時がある。
だからって全く自分で自分に期待するな、というわけではないが
自分が発した言葉で自分が がんじがらめになってしまわないように
"自分"という人間のあり方を考えていきたいなぁ、と
そう、思うのだ。