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昨日の続きと何度も私が書きたくなるような話

今日は久しぶりに大学のいつメンで女子会という名の電話をした。

久しぶりに話したから楽しかったけれど、やっぱり出かけないとこんなにも話題は無くなるのか、とも思ってしまった。

日常の些細な出来事を伝え合っていた"普通"の日常が懐かしい。

普通に戻るんじゃなくて新しい"普通"を見つけたい。

普通は見つけるものじゃなくて、気づけば自分にとって当たり前になっているものかもしれないけれどね。


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昨日の国語(特に小説)をどう読むかに関して興味深いコメントをとむさんから頂いた。

豊かな感受性を適度に理性で押さえつけるのが1番の高得点のコツなのではないか

国語はあまりできない僕ですが、とおっしゃっていたが、このコメントは面白いなぁと率直に思った。

たまに小説を読むときに起こる現象が、「登場人物に感情移入してしまうこと」である。

たとえそれが試験問題でも、小説を読んで泣きそうになってしまう人は少なくないのではないか。

感動したって共感して泣いたって、問題さえ解ければ、結果が求められる試験や入試においては良いだろう。点数が全てだ。

試験中静かに泣くくらいなら誰にも迷惑をかけていないしね。

ただここで自分が登場人物になったかのように思って、

登場人物の気持ちを代弁してはダメだ。

登場人物の気持ちを代弁しようとしたときによく起こる現象は、

「登場人物の心情になりきっているつもりがいつの間にか自分の心の感情で問題を解いている」ということだ。

そうなるとまるっきり解答は違ってくるだろう。

登場人物に共感してなりきるのは良いが、あまりにも自分に置き換えすぎないように気をつけたいところだ。

いつの間にか自分が主人公の物語で、自分の心情で問題文に解答してはだめだ。


何年生の時か忘れたが、友達と試験に出た小説、感動したよね なんて話しながら帰り道を歩いていたことがある。

私はこの時、その小説を読んで純粋に感動した。だが友達は違かった。

彼女はこう言った。「今日の小説の主人公は、まるで私そのものだった。」と。

彼女は主人公の人生に共感し、自分に置き換えるあまりいつの間にか判断を誤っていた。

彼女は自分そのものとも言える主人公が登場するこの小説の文庫本を後で購入していた。

この時の彼女にとって大事だったのは点数ではなくてその中身だったのだろう。


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私がまだまだ短いけれど人生を過ごしてきて、いつだって言いたいのは言葉の力、についてのことだ。

言葉は恐ろしいナイフにもなるし、優しいぬくもりにもなる。

使い方や使う人や使う相手によって言葉は様々に変化する。

言葉が纏う雰囲気や、色や、明るさは様々に変化する。


小さい頃の出来事で印象に残っているのが、"本の読み聞かせ"である。

読み聞かせほど言葉に温かみを感じられる瞬間はなかった。たとえ悲しい話でも、読み聞かせをしてもらえるとそこには必ず何らかの"あたたかさ"が存在していた。


教師という職業に就いた人は、人生において同じことを何度も何度も教える。

国語の先生は、何度も何度も教科書の話を音読する。生徒たちに聞かせる。

小学校3,4年生の時に担任だった女の先生が、音読をしながら泣いていたことがある。

先生は決して若くはなかったし、教師人生において何度もその話を繰り返し読み、何度も同じ授業をしてきただろうに。

先生は、「この話だけは何度読んでも泣けてしまう」と言っていた。

その話というのは、「ちいちゃんのかげおくり」という話である。

これを読んでいる皆さんは読んだことがあるでしょうか。

何度読んだって、読む度に涙を流すことができる。

これも1つの、言葉の力だと思った。

ただ目で追って静かに物語を読むのではなく、誰かに聴かせるという「音読」を行いながらその物語を読むことで、言葉の温かさが増す部分があるのだろうか。

声に出して読むことで、物語の世界に入ってまるで自分がそこにいるかのような気持ちになれるのだろうか。



作者によって並べられた言葉でできた文章は
今日も誰かを別の世界へ連れて行ってくれるのかもしれない。


言葉がまるで自分に纏っているような感覚は、
何度味わっても味わいきれないなぁと思う。