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海外の人が日本に求めて来る精神性のようなものは苔寺にあったよという話

昨日は苔で有名な京都の西芳寺を訪れました。
事前申し込み必須、拝観料4,000円!に敷居が高いな~と思ったけど、
絶対それだけの価値はあるな、と思って。

庭にはまり、日本庭園を造って来た造園会社の親方に出会い、お手伝いをして来ました。大学でランドスケープデザイン学科なのですが、日本庭園の歴史から知識ありき!という感じで、結構勉強させられます。

枯山水とか、苔と木と石の庭は、自然を模したものと言いながら、とても人工的に感じてしまい、私はもっともっとナチュラルな庭が好き!と思っていたのですが、それでも、親方に連れて行ってもらう庭の作業を終えると、スッキリとした空気間とみずみずしさに毎回感動して、苔の美しさや触り心地にうっとり💗

苔の中にマンリョウの赤い実

手付かずの自然を残すことを信条とするフランス人の庭師ジル・クレマンさんが書いています。

今日の世界で最良のもの、最も大事なものはなんでしょうか。庭師である私とってそれは生命です。その存在が脅かされているからです。

庭師と旅人 「動いている庭」から「第三風景」へ | ジル・クレマン, エマニュエル・マレス, エマニュエル・マレス, 秋山 研吉 |本 | 通販 | Amazon

と書きつつも、

この最良のものという観念が、別の文明圏、たとえば日本ではまったく異なる捉え方をされるということは承知しています。日本ではそれは精神の領域に属する物、土地や霊や神々に連なるものです。日本人は風景を切り取ってそこに霊的な力を付与するのです。その状態を保つには植物に手を加える必要がありますが、場合によっては、石と見事な岩を配しただけで遠く離れた風景がそこにあるかのよう感じさせることも可能にしてしまいます。

同上

最良のものという観念は比較によって論じることができません。日本式庭園には隅々まで人の手が加えられ、非常に細かく剪定が行われることを私は知っていますが、だからといってショックを受けることはありません。私たちは互いに異なる関係性のなかにいるからです。私は龍安寺や圓通寺の庭を見ると瞑想へといざなわれます。
何時間でもそこに座ってじっと見入ってしまいます。物理的には壁や生け垣のような境界があるのに、心はその向こうへと広がって行きます。それがこれらの庭のもつ力です。ヨーロッパにはこれに通じるようなものは一切見られません。境界という概念そのものさえ、同じ意味ではとらえられていません。それが感覚と感情におよぼすとされる役割からして異なっているのです。

同上

長い引用になりましたが、人工的に造られた庭を、自然主導とも言えるそこに寄り添う庭師のスタイルを貫き、そのような土地を増やす必要性を説いて現実に造っているジル・クレマンさんにして、枯山水の日本庭園をこのように書いておられることの意味が、いまひとつ分からずにいました。

私が作りたいのは、そんな庭ではないし、ジルさんの言う第三の庭も、亜熱帯化している日本ではワイルドになり過ぎて大変なことになる、その間なのか???私は何を目指している?日本庭園は時代遅れではないのか?など、いろんな「問い」を持った状態で学んでいます。

そうは言っても美しい
池にモミジが映りこみ、水面のさざ波も美しい。

歴史を見ても、権力者が壮大、優美な庭を作ったと言われるものが、世界遺産や重要文化財となっているが、すべて権力と人力とを使って作ったもの。
茶の湯にしたって、同じ。男性の権力と政治と遊びの賜物。そう思うと反発したい気持ちも湧いてきて、女性が庭を日本庭園を造ったらどうなる?と言った問などもあります。
それにしても、親方からも、学校の先生方からも、歴史から学ぶことや先人に学ぶことをうるさいほどに言われます。分かるんだけど~~~😓という感じです。

世の中の素晴らしい文化的なものは、そうやって培われてきたものが多い。
モーツアルトやバッハにしても、宮廷音楽として、権力者がいてこそという土壌があった。

でもこれからは、女性だって、文化を作ることの一端を担える時代じゃないのかな~っていう気持ちがあるんだな、と今書いていて思いました。
それは可能だし、私ができなくても、これからの若い女性たちがどんどんそうやって文化を創って行くでしょう。

で、話は戻りますが、ジル・クレマンさんさえもそう言わせた日本庭園の魅力ってなんなんだろう?ということが私の中の「問い」でした。
私の親方は、日本庭園をこよなく愛し、自らも作庭され、その庭の管理を任されていることに誇りを持っている方で、そのような方と出会わせていただき、たくさんのことを教わっている、このご縁も意味がある事でしょうから。

そんな問いを持ったまま、課題をこなすために、どこか歴史的な日本庭園を訪れる必要があり、選んだのが「西芳寺」でした。
近くにも有名な社寺はたくさんあるのですが、結構遠いにもかかわらず、「西芳寺」を選んだのは、親方の影響で「苔」が好きだから。
どうせなら、苔と言えば!という苔寺、西芳寺を訪ねるのが面白いな!と思ったのでした。

このような美しい風景をおしゃべりしながら歩いて見過ごすのはもったいない!
静かに周遊できて良かったです。
周遊していると、見る角度によって、光の入り方が違い全く景色が違います。
これぞ、池泉回遊式庭園の醍醐味⭐
右下の石は、舟石と呼ばれ、船に見立てられた。

冒頭に書いたように、拝観料も高く、当日の受付はどのような事情があって不可能という、敷居の高さです。
それでも、西芳寺の公式HPを見ると、なぜ、そのようにしているか、ということがきちんと書かれていますし、行ってみて、私は本当に納得がいきました。

受付時間に門の前に列ができていて、並んでいる間に、お寺の女性スタッフの方から説明を受け、QRコード(又はメールの印刷したものなど)を確認されます。
門の中には一人ずつ入り、そこでQRコードをタッチ。パンフレットをもらって、まずは本堂へと案内されます。

本堂では、すでに前の時間の人たちが、静かに写経をしています。
外国人が7割くらいかな。本当に今、京都は、日本人より外国の人の方が多いです。電車でも、バスでも、駅でも、観光地でも、街中でも、、、体感はそんな感じ。


写経は本田の中の赤い毛氈の上に正座してもできます。

奈良や京都の他の社寺にも勉強のために行っていますが、これほど静かな状態の場所はありません。どこのお庭でも、グループでおしゃべりをしながら、お互いを写真に写すために、他の人が足を留めることになったり、ポーズを付けて写真の撮り合いっこをしている女性たちなど、、、多いですが、
写経をしてから庭の拝観をする、という順番が良いのでしょう。

写経も本殿で行われ、説明は紙に書かれたものを渡され、赤い毛氈を敷いた一人一人の机の前に座ります。

●写経は仏道修行の一つですので、本堂内での写真撮影および携帯電話の使用は禁止です。また、私語はご遠慮ください。
●一つ一つの字に御仏が宿ります。字が綺麗かどうかに囚われるのでなく、目の前の写経に集中しましょう。
●写経を始めるにあたり、まずは心を落ち着けましょう。目を半分くらい閉じ、力まず、ラクな姿勢で黙祷するように座ります。深呼吸を5回ほどされたら、ゆっくりと目をお開けください。(中略)書き上げられましたら、お座りの席にて静かに手を合わせてください。

「西芳寺の写経」時に渡される説明文より

静寂な本堂で、このような説明文を、小声で話す係の人から渡されると、自然とこちらも厳かな気持ちになる。
そういう意味で、ここがどういう場所なのか、何を求められているのか、ということが、違う文化圏から来た人たちにも理解しやすいと思う。
高い拝観料を払って事前に申し込んで、やったことがない「写経」というもので、日本語の難しい漢字を(しかも、仏教のお経という深い意味を持つ言葉)なぞることで体験できる、こんなに特別な場所は、日本であってもそうそうないと思います。

その後、庭では自由に散策でき、人の数も制限はされていますが、驚くほどに静かでした。聞こえるのは風と鳥の声。誰もが、「見えないものを見よう」として、耳を澄まし、立ち止まってじっくりと景色を眺める、一人一人が自分の内なる目を持って何かを感じ取っている、そんな風景でした。

ため息が出るほど美しい風景
そこに置かれた木の舟も絵になる、、、

入場の際に渡されるパンフレットにも、「見えないものを見る」と言った説明があるからでしょう。

「見えないもの」として、この苔寺の歩んできた歴史があります。
これは私が今回の課題で学んだことをおすそ分け😝

今の静寂な空間からは想像できないほどの、波乱万丈の西芳寺の歴史。その始まりは西暦600年ごろの聖徳太子にさかのぼる。のちに法相宗寺院として開山され、弘法大師によって真言宗、法然上人によって浄土宗、夢窓国師によって臨済宗に改宗されて来た。
(夢窓国師は、日本庭園史上、特別な方で、高名な禅僧でありながら、庭師としても京都の龍安寺ほか全国の庭園を手掛けた。西芳寺と天龍寺は共に世界遺産に登録されている。)
応仁の乱による全建物の焼失、何度も大きな洪水により庭が壊滅。
様々な人災天災に翻弄されながら、江戸時代の洪水の後にしばらく放置された状態の庭園に苔が入り込み、100年もかけて、庭中を覆いつくした。
荒廃がもたらした(このことこそ、まさにジル・クレマンさんのいう、第三の風景)、今の苔寺の静謐な美しさが作られました。
手入れも、余計なことはせず、それでも庭として、人の手が入ることで美しさを保つ、という繊細な心遣いがあるからこそと想像させられます。

また、パンフレットには「邂逅」として、日々刻々と移り変わる姿を見ること。同じ景色はない。今日と別の日を比べて良し悪しを決められるものでもない。ありのままの「今」を全身でお楽しみください、と書かれている。

そうは言っても今は見ごろ。苔も美しく、紅葉も日々濃くなっています。

夏の日照りに乾いてひび割れたりしているときもある。青々とした苔を期待して来た人は嘆くのでしょう。それでも、過酷な環境も生きるためには必要で、苔は様々な環境に適応させながら強く生きているものだから、人間が余計な手を加えない、ということも手入れの一つだということだと思います。

ひび割れたら水やりを!といった短絡的なことが、苔にとって良いとも限らず、雨を待って健気に生きている苔の「今」を感じてもらいたい、というお寺側の願いを感じます。
人間だって同じですよね。

日本人の持っている自然観、それは、草木一本、山も川も、すべてが命を持っている、という感覚。生きているものの主体的な生命力を尊重する姿勢。

日が傾いているので、水面や苔に落ちる影がまた美しい。

これ書いて、あ~、ショーゲンさんがブンジュ村の村長に言われたのも、こんなことだな~って思います。

その日本人の感覚は、いちいち学校で教えなくても、親がうるさく言わなくても、沁みついている、湧き出て来る感覚。
外国人が多くなった街で、それを再認識されます。

そんな日本人の繊細な感覚を、この西芳寺での拝観で再認識できたし、外国の方々も、彼らが求め憧れている、自分たちには絶対にない「日本的感覚」を経験できる場所ではないかと思います。

日本人は、優しいし、サービス精神もあるから、外国人に合わせてしまうことで、日本らしさを失っている場所が多すぎます。
京都も奈良も、壊滅的な感じです、、、😢歩いててほんと疲れる。。。
みんな、憧れの日本にやって来て、とても幸せそうで、それは嬉しいんだけど、日常では疲れますね~。人が多すぎて休みがない感じ。「たまには、日本人だけの日本をくれ~~~~!」って思う~💦愚痴はおいといて。

もう一度、私たちは日本人であることに誇りを持って気高く振舞ったところで、そもそも謙虚な民族なので、その頃合いの自然さが、また外国の人々に愛される部分ではないかと思います。

なんか、話がえらい方向に行ってしまった~
でもずっと感じて書きたかったことが、キーボードを打つ手を動かし続けたので、結果オーライ⭐

長文最後までお読みいただき、ありがとうございます!😝

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