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水村美苗『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』ちくま文庫

ずいぶん前に話題になったこの本をいまごろ読んだ。たいへん興味がある内容なので自分用に詳しめにメモしていく。それにしてもこんなしっかりした内容の本がベストセラーになったなんて素晴らしいな。人文系の素養がある程度なければ理解するのは難しいと思うのだが、当時どういう人が読んだのだろう。

最初の章として、筆者がアメリカの国際作家プログラム(IWP)に参加したときの経験から始まるのがいい。世界の異なる国々のことは知識として頭に入れるだけではダメで、目の前の生身の人間を見て知ることが大事なのだと自分の限られた経験からも思う。ここで筆者は地球上のそれぞれの国でそれぞれの言語で作家たちが書いていることを身をもって感じる。

しかし、そうやって書かれた本をいったいどれぐらいの人が読むのか。それは書いている言語による。英語で書けば読者は多く、たとえばモンゴル語で書けばごく少ない。それでも作家たちは書くのだ。その中で日本語で書かれた文学は、読者数も大したことはないし、きっと目立たない存在なのだろうと思ってしまうけれど、意外にもその歴史と内容から「主要な文学(major literature)」と見なされているらしい。紫式部や芭蕉の国なのである。

ここで筆者は3つの言語のタイプを紹介する(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』がベース)。
・まずは「普遍語(universal language)」。これは昔のラテン語がよい例で、多くの国で知識階級が読み書きしていた言語。学問は必ずこの言語でなされた。その後、西洋ではフランス語が優勢だった時代もあるが、現在は英語になってしまった。中国語は話者数は多いが、上の条件は満たさない。
・それから「地方語 (local language)」。日本なら日本語がこれ。日本語は普遍語ではない。
・そして「国語(national language)」。日本は日本語だが、これは自然発生したものではなく、国民国家の時代になって<自分たちの言葉>として意識されるようになったもの。国語は国民文学の言葉であり、ナショナリズムと関係する。

ラテン語は当時の超エリートが使う言葉で、そのエリートたちは自分の母語とは別にラテン語を習得した「二重言語者」である。それ以後の時代もヨーロッパでは知識階級はみなドイツ語、フランス語、英語を解する「多重言語者」だった。

翻訳の重要性。普遍語で書かれた書物はどんどん現地語へと翻訳された。たとえばルターはギリシア語の聖書を当時の現地語であるドイツ語に翻訳して人々が読めるようにした。明治以後の日本でもさかんに翻訳がなされた。

普遍語は学問に必要な言葉だったが、現地語で学問はできるのか。現実問題として、現地語で書かれた書物は内容が優れていてもその存在をほとんど知られない。(いろいろ残念な例があげてある。)それに対して、国語によって国民文学が生まれたが、国語は小説には適した言語だった。国語とは人々の内なるものの表出であると感じられた。

次に日本語について考えるが、その特殊な成り立ちについては省略。日本では「漢語」が普遍語であり、学問の言葉だったが、漢語がすたれていってしまう。一方現地語は非常に豊かであり、早くから文学が生まれていた。(ヨーロッパの場合、文学と呼ばれるものの誕生は12世紀)。また、明治以前にすでに印刷資本主義が発達していたため、現地語の出版物がどんどん流通していった。このようにして日本語は国語として早めに成立した。

しかし明治になって、日本語は実はかなり危うい状況にあった。近代国家をめざす政治家たちの間で漢字を廃止せよとか、英語を公用語にせよなどの意見が乱立する。また、列強の植民地になる危険も現実に高かったのだ。

日本の近代文学について。ここからが筆者の独特の意見が出てくるところ。彼女は日本近代文学を非常に高く評価しているのだ。それは「世界文学」の質を持った文学だから。国語は普遍語からの翻訳によって成立した言葉であり、だから世界を俯瞰する視線、世界性を持つ文学だという。その例が漱石である。

漱石は大学の教員をしていた。欧米の大学と違う日本の大学の機能は、普遍語で書かれた書物を日本に紹介することだった。英語、フランス語、ドイツ語を読み、日本語で書く知識人を大量に輩出した。翻訳者養成機関でもあった。漱石も東大で英文学の紹介者として教えていたのだ。だが、あの『文学論』を書き、それが失敗したころから考えが変わる。学問の言葉としての日本語で書くよりも、文学の言葉としての日本語で書きたくなったのだ。また、もともとは漢文好きだったのに、西洋のものである小説を書くことになってしまった。

というような具合に(詳細は割愛)、明治の文学はたいへんエキサイティングで豊かなものなのに、日本の学校ではこれらの文学を教えなくなってきていることを筆者は嘆く。(どうも水村さんは現代の日本文学があまりお好きでないらしい。)さらに国語の時間数が圧倒的に少ないことを問題視するのである。

さて、いまは誰がどう見ても英語が唯一の普遍語になっており、あらゆる学問分野で、どこの国の研究者も英語で発表しようとしている。インターネットの爆発的な普及もあって、英語の世紀は決定的となった。ではこれからの日本人は英語をどのように考えればいいのか。ここからは学校での英語教育の話になり、また筆者のユニークな説が展開される。端的にいえば、筆者は日本人全員が英語を多くの時間をかけて学ぶ必要はないと言う。どうせそれほど使う機会はないのだから。学校ではある程度きっかけを与える程度にしておけばよい。しかし少数の者にはしっかり英語力をつけて、国際舞台でしっかりというべきことを言えるようにしないと国民が困ってしまうというのだ。つまり昔のような二重言語者を養成するのである。それに対していま日本の学校では全員の英語教育に多くの時間をかけている。だが時間をかけているのに英語がしゃべれないのはけしからんというクレームが出る。それでますます英語の時間を増やす。(英語教育で儲けようとする企業は大喜び。)

以上が非常に雑で不正確なわたしの要約である。よい子はこの要約で納得してはいけません。ちゃんと本書を読みましょう。

わたしの感想。とても面白かった。最後の英語教育の提言については検討してもいいんじゃないかと思う。ただ、現在が英語の世紀であることは確かだが、英語以外の言語も学ぶ機会があればよいのにとは思う。また、現在の日本の大学で外国文学を教える学部は、いまでも紹介者のままなのか、それとも一歩進んでいるのか。

ひとつ個人的に気になったエピソードがあった。漱石を英訳しても、英語圏の読者が読むと何も面白くないという話だ。なぜ日本で漱石が愛読されるのか理解できないらしい。背景知識がないためか。それとも翻訳しづらいタイプの内容なのか。村上春樹など英訳で人気がある日本文学も多いのに。

あともうひとつの疑問。最近の日本語の授業は、「論理国語」と「文学国語」に分かれていると聞いた。前者はたとえば契約書を読むなどの力を養うのだとか。とんでもない馬鹿げた話だと、初めて聞いたときは思ったが、考えてみればそれは昔の「学問の言葉」と「文学の言葉」に戻ったとも言えるのではないか。

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