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庄野潤三『ザボンの花』(講談社文芸文庫)

2021/2/3

これは再読か再再読。初めて読んだのはいつだったんだろう。子どものときかな。ハードカバーで鈴木義治の挿絵だった。特に事件も盛り上がりもなく、ただのんびりと穏やかな日々が描かれる。それがいい。今回は文庫で読んだけれど、やはりあの挿絵のあの本がいいなぁ。本自体にものんびり感があった。

読んでいくと、自分が細かい部分を実によく覚えていることに驚く。冒頭のヒバリ。女の子ふたりが財布を落とした話。子どもと母親千枝がヤドカリを飼う話。怖い鋳掛屋が来る話。しかし記憶になかった部分もあって、たとえば矢牧の大阪の実家の場面。自分が生まれ育った家でくつろぐのだが、子どもたちが仲良く遊び、老いた母親もいるが、父親と兄はすでに亡くなっている。庭にあった大好きだったプラタナスの木もない。亡くなった人もいて、生まれてまもない子どもたちもいる。いつのまにか古いものから新しい命への世代交代があったと気づいたときの悲しさについて矢牧は考える。

この小説が書かれたのは昭和30年。わたしが生まれる前年だ。でも舞台となった東京近郊の何もない土地の雰囲気はわたしは知らないものだ。水道がなくて井戸。庭がガランとしているので植木を植えたいのだが、どんな木にするか。子どもの心が豊かになるような木を親は植えたいが、お金はあまりないのである。犬のベルはたぶん繋がれていないのかな。散歩に連れて行く様子もないから。冷房のない場末の映画館。月末には集金。物質的には豊かではないけれど、これから日本は発展していくのだなということが感じられる。

平凡な毎日をこまやかに描いているこういう小説ばかり読んで過ごせば、自分も穏やかな気分になれそう。だが、その外で何が起きているのか知らされない小説でもある、とも思う。

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