覚えてる人、忘れる人。
夏の終わりは恋の終わりに似ていると思う。
夢から覚めて日常に戻っていく感じが。
夏になると思い出す人がいる。8月生まれの、かつて好きだった人。ひょろりと背が高くて、腕から手にかけてのラインが女みたいにきれいだった人。
「覚えている」ということは、愛と似ている。別れて何年か経った今でも、私は3つの数字を覚えている。彼の誕生日を構成する3つの数字を。
もう今となっては何の役にも立たないその数字を、脳はいつまでも記憶している。それから、夏の海辺で並んで食べたアイスキャンディーのぶどう味と、彼の部屋から見えた夜の街並み、エレベーターの中でしたキスの温度も。
それらをしかと保存している脳のキャパシティよ。たとえ脳全体の容量の0.1%分だったとしても、無駄なものをいつまでも捨てられずに保存している脳がちょっと愛おしくさえ思える。
この夏、偶然その彼に会った。お互い少しは大人になって「そんなこともあったね」と過去を笑い合えた。その人は、私が好きだった宇多田ヒカルの歌と、当時私が書いたこっぱずかしいポエムの一節を覚えていた。
自分でさえ忘れてしまっていたことを覚えていた。「あの時お前、あぁ言ってたよね、あんなことしてたよね」と言われるたびに、ほろほろと記憶が蘇っていく。まるであの夏のアイスキャンディーが溶けていくように。
生きるのに必要のないどうでもいいことをいつまでも覚えているのは、愛と似ている。彼はずっと私に興味がないのかと思っていた。付き合っていた時でさえ、どこか飄々としてたし、私に恋に落ちたり私のことを激しく求めたり、そういうことはないんだろうなと思っていた。
だから、意外だった。自分自身でさえ覚えていなかった些末な私に関する情報を色鮮やかに彼が記憶していたこと。どうでもいいことまで覚えていることが愛だとするなら、もしかしたら案外私は彼に密やかに愛されていたのかもしれないと思った。
過去の自分が、自分以外の人の中に保存されていたという事実はとてもあったかい。
保存しててくれてありがとう、と思う。あなたの大切な脳の容量の一部を、私に使ってくれてありがとう、と。
夏を重ねるたび、記憶が抜け落ちていって、いつか彼の記憶の中から私が消えてしまったとしても、そのことを悲しまなくてもいいくらい幸せになりたいと思った。
どんなにあの温度が恋しくてももう元には戻れないから。だとしたら、新たに自分が幸せになれる温度を見つけて寄り添うことしかできないから。
きっともう会うことはないだろうと思いながら、「元気でね」と言って別れた。