いいトシの大人が計算ドリルをやってわかったこと
訳あって、計算ドリルをやっていた。
計算ドリル。
計算問題がたっぷり載っている、あの計算ドリルである。
アラフィフおばさんが何で今さら計算ドリルなんかやってたのか、その理由はまた後で説明するとして。
この記事を読んでいる皆さんは子どもの頃、計算ドリルが好きだっただろうか?
私は、大っっ嫌いだった。
計算ドリルは、小学生の夏休みの宿題などでやらされたと記憶している。
小学生の当時から、私は算数が嫌い。
成績はいつも5段階評価の2。
親からは「アヒルが並んでいる」と笑われた。
何で算数嫌いになっちゃったのか。
もはや記憶はおぼろだが、分数が出てきた辺りで風邪か何かで学校を休み、そこからつまづいたのだと思う。
気付けばもう、計算ドリルなんて見たくもないものになっていた。
でも宿題だから、やらなければいけない。
一応、やってみるけどわからない。
わからないから、親に聞く。
しかし私の中には、
「何でこんなのがわからないの?!」
と怒られた記憶ばかりが残っている。
まったく教えてくれなかったことはないはずだけど、こちらが理解するまで教わった覚えがない。
こうなると、怒られるのが嫌だから、だんだん親には聞かなくなる。
ひとりでやっても、わからないものはわからないから、全然できるようにならない。
逆に国語の作文ではよく褒められたので、国語はすごく好きだったし、がんばった。
反比例するように、算数はますますやらないし、嫌いになっていったのだ。
赤点まみれの中高数学を終えた私は、
・数字すら見るのも嫌。
・繰り上がり、繰り下がりのある暗算は、2ケタでもむっちゃ時間がかかる。(たぶん認知症テストに引っかかるレベル)
・数字なんて「1、2、3、たくさん」で充分ことたりると思う。
という大人に仕上がった。
算数はともかく、数学と名の付くものからは気持ちよくサヨナラしたはずなのに。
アラフィフにもなった今、中1レベルの計算ドリルをやる運命が待ち構えているとは思いもしなかったね…。
しかしどうしてもやる必要があった数学の勉強。
仕方なく計算ドリルを開いてやってみた。
えーと、ここはどうなるんだっけ。
確か、こうだったはず…あれ、合ってない。
どうして違うの?
何でこうなるの?
の、オンパレード。
ちなみに中1レベルの数学とは、一次方程式や比例反比例が出てくるあたり。
式にカッコがあり、xやy、小数点や分数を加法減法、乗法ったり累乗ったり除法ったりする。
(こんな数学用語も、もはや記憶の彼方だよ)
答えを見つつ解説を見つつ、どうしてもわからないところは夫に聞きつつドリルをやっていた私。
はたと気がつけば、結構、没頭してやってる…?
見るのも疎ましい、数字と記号とアルファベットが並んでいる計算式に、
集中して取り組んでる…?
それどころか、
ちょっと面白い。
なんて思っちゃってる…?
不思議な衝動だった。
だってあれほど嫌いで嫌いで嫌いな計算ドリルなのに。
ちょっと面白い、の理屈はわかる。
数学は答えが明快。
答えが合っていれば、うれしいので面白く感じるのだ。
それはまるで、ゲームのよう。
でも、なんで?
子供の頃は感じられなかった面白さを、40年もたった今、なぜ感じることができたのか?
その理屈も、わりとすぐにわかった。
子供の頃の私がわからなかったのは、算数ではなくて、勉強のやり方だったのだ。
そもそも宿題ですら、やったりやらなかったりのダメな子供だった私。
勉強のやり方なんて、みじんも確立できていなかった。
今回、特に強く意識はしていなかったが、
・1問解いたら、すぐに答え合わせをする
・どうしても理解できないところは、すぐ夫に聞く
というやり方で、計算ドリルをやっていた。
1問やったら、即!答えを見る。
だって、合ってるか合ってないか、気になってしょうがないのよ!!
1-1から1-5まであるとしたら、5問やってから答え合わせ~なんて悠長なことはしてられない。
1問解いたら即、こたえ!
解いたらこたえ!解いたらこたえ!
答えや解説を見て、その問題が完全に解けたら次の問題に移る。
そうすることで『合っているかどうかわからないストレス』を極力減らしていたんだと思う(笑)
何しろ計算ドリルやること自体がストレス。
そこへさらにストレスを募らせることは、明らかに良策ではない。
そして答えや解説を見ても理解できないときは、夫に教えてもらった。
夫は私より、遥かに計算できる男!
(というか、私ができなさすぎる)
妻がバカすぎて哀れに思った…のかはわからないが、夫は親切に教えてくれた(笑)
そう、
「後にして」とか、
「自分で調べろ」とか、
「そんなのもわかんないの?w」とか、
一度も言われることなく、わからないときにすぐに教わることができた。
すごいね。
夫は偉大な人だ。
《わからないときに、わからないことを、すぐに教わることができる》
何かを学ぼうとするときに、最も優れた環境とは、まさにこの状態だろう。
自分で考えるのは当たり前だけど、わからない状態が長く続くというのはかなりのストレスになる。
わからないという状態に疲れ果てて、嫌になってしまう。
独学が難しいのは、まさしく、その状態に耐えられなくなってしまうからじゃないか。
それを極力避けたのが、今回計算ドリルに集中し面白いと感じることができた要因だと思う。
子供の頃にこういう勉強の仕方ができていれば、もう少し賢くなれたかもしれないなあ…(笑)。
わからないことは学校で先生に聞けばいい、と今なら思える。
でも子供の頃は、ほかの子がいる前で素直に「わからない」と言えないんだな;^^
恥ずかしい、とか
怒られる、とか
バカにされる、とか
余計なことを考えちゃう。
そういう思いをしてでも、わからないことをわかろうとする意欲はなかった。
だめなことよりできることを伸ばそうという、ある種あきらめも早かった(笑)
わかるようになるって、面白いんだ。
勉強って、こうすればできるようになるんだ。
そういう根本的なことがわからなかった。
でも「聞くは一時の恥」とか「わからないことがあったら先生に聞きに来てね」とか、さんざん言われてたはずなんだよねえ?
人間、切羽詰まらないと行動には移せないもの、ということだろうか。
大人が《わからないときに、わからないことを、すぐに教わることができる》環境を手に入れるには、大抵安くないお金がかかる。
長期間のストレスに耐えるか、大枚をはたくか。
大人にとって、学びの壁は高い。
ん?今ならSNSで誰かに聞くことができるって?
コミュ障には、それも難しいんデスよ…orz
最後になぜ、アラフィフおばさんが今さら計算ドリルをやっていたのかというと。
求職者支援訓練を受けたいがためにやっておりました!
求職者支援訓練を受けるためには選考会なるもので、漢字(読み書き)と中1レベルの数学のテストがある。
同じく訓練を受けた友人にその話を聞いたときには、愕然としたね…。
テスト!?
テストなんてやるの??
中1レベル?!
そんなのできるわけないじゃーん!!!Σ( ̄ロ ̄lll)
と叫んだところ、心優しい友人が自分が使った計算ドリルを譲ってくれた。
おかげで、最初の希望講座は不合格だったものの(応募者多数だったせいもある)、次の希望講座には無事合格。
計算ドリルは、私を新たな学びの場へと導いてくれたのだった。
そして受講中。
私は、わからないところはどんどん先生に質問した。
さっき教わったばっかだなコレ、ということもあったが(笑)
頭に定着していなければそれは「わかってない」ということだ。
せっかく、
《わからないときに、わからないことを、すぐに教わることができる》
という最高の環境にいるのだから、利用しつくさなければもったいない。
ホントに、学生時代にそれがわかっていればなあ…。
少なくとも1、2、3、たくさんで充分、という大人にはならなかったかも、しれない。
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