誰かの恋心の芽生えは、椅子取りデスゲーム始まりの合図?!
おはようございます!
昨日は体調があまり良くはなかったので、なんとか睡眠時間を確保して、どうにか少し体調を持ち直しました。
更新したnoteの内容たちも、あまり精神的に安定しているとは言えないものが多めに見られ、もしどなたかに不安な気持ちを分け与えてしまったら…と思うと、申し訳のない気持ちになります。ごめんなさい。
今回はというとですね、そんな不安定に見られがちな自分たち数字がなぜそもそも不安定に見られるのか?というところにフォーカスを当て、普段あまり語らないがちな、自分たちのちょっと大事な要素について、語っていきたいと思います。
まず、この記事に触れてもらった一つの感想として、「なんだ?このヘンテコな記事のタイトルは?」と思われた方も、中にはいらっしゃると思います。
それ。そう。本当に変なんですよ。
自分たちには結構日常の中でヘンテコな出来事が起こりがちなんですけど、本当にヘンテコなので、たまに起きるヘンテコな出来事をそのまま言語にしてみました。
題して、「恋心が生まれる瞬間=デスゲームのゴングが鳴る瞬間」とでもいいましょうか。いやまぁ、タイトルを二度言ったみたいになっちゃったんですけど。
で、これ、妄想の出来事ではなくて、実際にそんな遠くない昔に自分たちに実際に起きちゃった出来事なんですね。所謂実話です。
まず、滅多に表に出ないA人格が誰かに恋をしました。
すると、A人格は自分が多重人格者であることを気にしているので、自分の気持ちを素直に口に出すことはしませんでした。
するとしかし、今度はその時期少し頻繁目に表に出ている役割を担っていたB人格が「A人格が覚えた感情が許せない」などと言い出しました。
B人格は、A人格が恋をした相手ではない人を愛し続けていました。そしてその人に愛を伝えることも日頃から諦めていませんでした。
そもそも自分たちにはルールがあり、それは『恋人をつくるなら、一つの身体に一つまで』というものです。
つまり、A人格の恋が実ってしまうと、B人格は自分の気持ちを諦めなくてはいけないのです。
自分たちは、わりと結構本当に”別人”で、喋り方や声の高さ、言動の内容や性格、趣向や好きになる人のタイプも、結構真逆同士だったりするんです。
(頭がおかしいな)と思われた方。ええ。あなたの言う通りです。俺も思ってます。ご安心ください。笑
そこでB人格が取った行動ですが、A人格が自分の目を見開いてしまうくらい驚くことでした。
B人格は、A人格の好きになった人に対して、勝手に「A人格はあなたのことが好きです。しかし、自分は他の人のことが好きです。自分は、好きな人を諦めたくありません。なので、A人格に対して遊びのつもりなのであれば、A人格のことは潔くふってあげてください。」
と、勝手にA人格の抱いていた気持ちをバラしてしまったのです。
A人格にとって、これは結構にショックな出来事でありました。
A人格は、自分の気持ちを言いたくない、そして、言わないつもりであったので。
ですがA人格は強制的に、この出来事によってというか、B人格が取った行動により自分の気持ちと向き合うことを急かされて、急いで向き合わなくてはいけなくなりました。
C人格がこの記事の執筆者(10番です!)だとして、C人格目線で言うと、「なかなかにおかしなことが起きているぞ…」でした。
A人格はその後、自分の気持ちと、そして好きになった方と、一生懸命に向き合いましたが、少し切ない理由で、ふられてしまいました。
B人格は、自分のした行動が決して倫理的に良くはない行動だと自覚してはいますが、自分の気持ちとコックピット席に座り続ける権利を奪われるわけにはいかず、B人格もまた、ただただ、生きることに必死であっただけでした。
A人格はC人格(俺!)に対して「えーん、ふられました」などと泣きついてきたりしました。
C人格(俺)は、「よしよし、お疲れ、よく頑張ったね」と労いの言葉をかけたりしました。
C人格(俺)には実はまた別の好きな人がいましたが(?!)、A人格がそもそも表に顔を出すことや、誰かに恋心を抱くこと自体、C人格にとって「珍しいね。素敵じゃない」と感じるものであったので、C人格はA人格の気持ちを否定したりしませんでした。
例えばA人格の恋心が晴れて実るとなると、C人格にとってもまたコックピット席に座り続ける権利や、一つの身体の中で得る所謂市民権みたいなものが奪われてしまうことでもありましたが、
C人格は、あまりそれを怖がっていませんでした。
内的家族が幸せならば自分の気持ちを諦めることになったとして、それでもよい。と、感じていたからです。
とまあ……ざっくりマジの実話をそのまま話しましたがこんな変なことが自分たちにはわりと平気に起きるというか、マジで起きたので、俺も俺でビビりました。
マジで俺たちって、過酷な椅子取りゲームが行われた結果コックピットに座っているのは誰か?っていうだけのことだったりして、マジで”一人の人間”とは程遠いんですよね。
”一人の人間”と比べると、あまりにも情緒が不安定だし、あまりに責任感や社会性が欠落しがちだし、
決して常識的とは言い難いし、コンプレックスばかりだし、気にしていることばかりです。
”一人の人間”と同じように見られることで、身体ひとつで判断されることで、たくさんの個性を持った、バラエティ要素にちょっとだけ富んで、人が持ってないものを沢山持っていてずるいと、羨ましいと、妬み僻みの仕打ちを受けることもあります。
しかし、”一人の人間”に見せかけて、実は17人が共同で生活をしているシェアハウスが人の形を成して移動して歩行しているだけとなると、ごく自然なことなのでは無いか?とも思ったりします。
皆さんは、これについて、どう思われましたか?
やっぱり俺は、俺たちは、ざっくり言うと変でしかないと思います。
「変だよ」と自分から言い出すことで、他者からのその言葉が来た時に備え、怯えて牽制球を投げているだけかもしれませんね。
うーん。笑
いや、そもそも『一つの身体につき、恋人は一人まで』という、社会性をどうにか上手く取り保つためのルールを設けたものの、そのルール自体取っぱらったり、複数愛者を自称していったりするなどして、別のやり方を考えたほうがよいのかもしれません。
その方が自分たちの精神衛生上良いのではないかと、今更ながら思えてきました。
実際にリアルガチ多重人格者(人格解離者)は一つの身体で複数人の他人と交際している人もちらほら見かけますし、その方が賢い判断だなと思うこともあります。
生き方は人それぞれで、著しく誰かの気持ちを傷つけたり(それもまた必然的な出来事であるかもしれないのですが)、社会のルールを逸脱したりしないかぎりは、自由に生きていいと思うのです。
日本国が「一つの身体には一つの魂」「一つの身体には一人の恋人」に厳しいだけであったりして、そもそもDID(人格解離者)もポリアモリー(複数愛者)も、国外では結構珍しくないことだったりしますしね。「ああ、たまにいるよね~」くらいの認識で流してもらえたりしますから。
自分は日本国というか、日本語が好きで、日本国に在住することを好んで選んでもいますが、マインドはわりと国外出身の人寄りであったり、外国語を扱うのも苦ではなかったりして、やはり自分のほうが、日本国内に住むことがそもそも向いていないのかもしれません。
多国籍国家であるアメリカに住んだり、ジェンダーフリー大国であるタイに住んだり、世界の幸福度ナンバーワンのスウェーデンに住んだり、日本国在住にこだわるべきではないのかも。
日々、けっこう、自分には何ができて何ができなくて、何が向いていて何が不向きであるのか、いろいろなことを考えたりする上で、そんなことを考えたりもします。
なんだか、このタイトルで始めたわりに話が飛躍しすぎてしまったかもしれませんね。「話、飛びまくりじゃないの?」と感じられた方、すみません。気をつけます。
でも、読んでくださってありがとう。
執筆時間もかなり要しましたし、総文字数も結構いきました。久々に3,300字越えの数値を見ました。
ありがとう。本当にありがとうね。
いつもありがとう。
またお会いしてくださったら、とっても嬉しく思います。
ちょっとだけ締まりが悪いけれど、この辺で今日は終わろうかと思います。
次回は自分たちの話題では無くて、社会的にちょっとシリアスで、でもとても大切な、そんな話に触れた記事にしたいと思っています。
またよければ、お読みください。
それでは、マジで今日も今日とてありがとう!
また会おうね。
千川 悠里(10)