中学時代-わたしが制服を脱いだ理由9
何も聞かれなかった。
今思えばそれが彼らなりの愛だったのかもしれないけど、家族はわたしを腫れ物に触れるかのように扱った。
何も聞かれないことがわたしへの愛情と関心の薄さを表しているような気がして、より一層固く心を閉ざしたことを覚えている。
もしあの時ちゃんと話していたら、わたしの欠乏感は少しは埋まったのだろうか。
いや、きっとわたしは両親に何も話さなかったと思う。
両親がわたしを受け入れてくれるとは到底思えなかったからだ。
それ程自分は「愛される価値がない」と思っていたし、取り返しのつかないところまで来ている自覚があった。
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学校を休んで母親と大学病院の精神科へ行った。
長い待ち時間に、当たり障りのない会話しかできないわたしたち親娘は、ほんの少しの間に家族ではなくなっていて。
いつの間にかお互いわかりあえないただの同居人に成り下がっていた。
初対面の精神科医ごときに何がわかるのだろう。
直接のコミュニケーションを避けて、母親にすら何も言おうとしないのに、それが精神科医にかかって何かを言うと思ってるのだろうか?
あんた達なんかにわたしの気持ちは教えてあげない。
感情を隠し慣れたわたしは、初めての受診で、「眠れない」「息ができない」「急に過呼吸になる」と症状だけを簡潔に伝えるのみで会話を終わらせた。
精神科医はそうした数分間のやりとりで、流れ作業のように睡眠導入剤と精神安定剤を処方した。
その後も、中身のない会話に処方される薬がどんどん増えていくだけだった。
その分だけ、短い診療時間で自分がどんどんおかしいと認定されている気がしたし、よく事情も理解しない大人が薬を使ってわたしを変えようとしている気がした。
いつしかわたしの腕を見るようになった両親の視線。
出かけようとすると始まる尋問。
欲しかったわたしへの関心は結果歪んだ形で叶えられたけど、それは愛情の延長から来るものではなく、不信感からくる監視としか思えなかった。
刹那的で退廃的だった自由な時間と引き換えに、飲みきれない薬と部屋で過ごす一人の時間が貯まっていく。
睡眠導入剤も精神安定剤も救いようのないわたしを救えるハズなんてない。
出歩くことができなくなったわたしは、貯まった精神安定剤をまとめて飲んでまた腕を切りはじめた。
今度はより深く。
自ら自傷行為を繰り返す娘とそれを止められない家族。
不健全な家族の出来上がり。
中学3年の夏は終わっていった。