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ベランダに棲む蟹のことで


 ベランダに棲む蟹のことで、ご相談申し上げます。

 数年前より、私の家のベランダには蟹が棲みついております。
 五センチほどの、横長の甲羅をもった真っ赤な蟹。
 山蟹です。
 まいとし春になると、子を孕みます。
 泡立てたシャボンのような卵が、両の鋏をすっぽりと覆い、
 しばらくのあいだ蟹は万歳をしたままの恰好で、
 ベランダの角の日陰にひっそりと身を隠します。

 が、ある日とつぜんシャボンは消えて、
 小さな山椒の実のようなものが、
 辺りにぱらぱらと散らばるのです。
 かすかに緑がかったその丸い粒は、
 二,三日もすると小指の爪ほどの大きさになり、
 はっきりと蟹と分かるような形になります。
 色は、熟れたさくらんぼにも似た、澄んだ赤。


 ゆっくりと横歩きする母蟹に必至に追いつこうと、
 こよりのような爪を細かくふるわせながら、
 忙しなく足を動かす小蟹達はとても愛らしく、
 その微笑ましい光景は、
 我が家にとって春到来のしるしとなっておりました。


 ところが今年は、少し様子が違ったのです。
 親蟹の鋏から卵が消えて、山椒の実が散らばったと思うと、
 その翌日には、小蟹はもう親指の爪ほどの大きさに。
 しかも、その甲羅は真四角で、黒い斑模様が入っています。
 どうしたのだろう。もしかしたら病気だろうか。


 心配になった主人と私はそっとベランダに降りてみました。
 と、どこかで、かさり、と音がしたのです。
 ベランダの端に置いた、空の植木鉢のあたり。
 目を懲らす間もなく、何か黒い影のようなものが走り出で、
 そのまま一直線に私達ふたりのあいだを駆け抜けると、
 隣家との境の壁の下へ吸いこまれるようにして消えてしまった。
 驚くべき素早さでした。


 沢蟹だな。
 主人が、ひと言、低い声で言いました。
 そういえば、少し前から聞こえていたのです。
 夜になると、どこからか水音が。


 その夜、時が日にちを越える頃、そっと窓をあけてみました。
 冴えた満月の夜でした。
 青味がかった月明かりに照らされて、
 ベランダもほのかに青く輝いています。
 小蟹たちは、いつもの場所に集まって寝入っているようで、
 その辺りだけが赤と黒のまだら模様になっておりました。
 が、真っ赤な母蟹の姿はどこにもありません。


 息をつめるようにして耳を澄ましていると、やはり、聞こえます。
 淀みなく流れていく、水音が。
 さらさら、と。
 さらさら、と。


 どうやら、小川が流れているようなのです。
 ベランダの、青く光る床の底に。

                     


 

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