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また出会うために生きる(対岸の彼女/角田光代)

私は今のところ結婚願望や子供を持ちたい願望がほとんどない。
実家で家族と暮らすのですら苦痛に感じることがあるし、お願いされたわけでもないのにこの世に産み落とされた自分の子どもが数々の辛いことを経験することを想像するとなんだか申し訳ない気持ちになるからだ。
なぜ多くの人たちがそれほどまでに結婚を望むのか、子どもを持ちたいと願うのか、わからなくはないものの理解しきれない。
だからこそ、この作品のキャッチフレーズとも言える「結婚する、しない。子どもがいる、いない。それだけで女どうし、なぜわかりあえなくなるんだろう。」という帯の言葉に惹かれた。

「こうして結婚しない、子ども産まない女が増えるのよ。少子化の元凶は働く女じゃなくて、幸せな主婦の愚痴だね」(p.108)
「自分から出てきた子どもが、成長して、私には決してわからないことで絶望したり傷ついたりするって、想像しただけで怖い」(p.109)

こうした葵の言葉には激しく同意する。


しかし読み進めてみると、この物語の核心はそういった“既婚or未婚・子持ちor子なしの考え方の違い”ではないらしい。


読了した私に残ったものは、“対人関係の難しさ”、そして“一歩踏み出して進む勇気”だった。


人付き合いって本当に難しい。
もし世間の人々の人付き合いの能力や友達の数が数値化されたら、私のそれらは確実に平均値を下回るだろう。
学生時代を振り返ってみても、友達と連れ立ってトイレに行くことは周りの子と比べてかなり少なかったし、まるで友達に依存しているかのように必要以上に群れたりすることはなかった。
それくらい人付き合いが苦手だ。
そもそも「他人を信用する」ということができない。
むしろここ数年は、「自分以外の人のことを安易に信用しすぎない」を信条に、意図的に他人を信用しすぎることを避けている。
どれだけ親しい仲であっても、“自分自身でない”他人はいつ手のひらを返すように裏切るかわからないという考えが根底にある。
信じた結果傷つくのが嫌なのだ。
だから、

親しくなることは加算ではなく喪失(p.285)
同じものを見ていたはずの相手が、違う場所にいると知ることが。それぞれ高校を出、別の場所にいき、まったく異なるものを見て、かわってしまったであろう相手に連絡をとるのがこわかったー友達、まだできないの?と訊かれるのがこわかったー(p.313)

は私自身あまりにも思い当たる節があった。


ただ、この作品は「それくらい対人関係って難しいよね」では終わらない。
たしかに人付き合いは煩わしいかもしれないけど、一歩踏み込んで前へ進んでみる勇気を最後に小夜子が与えてくれる。

なんのために年を重ねたのか。人と関わり合うことが煩わしくなったとき、都合よく生活に逃げ込むためだろうか。銀行に用事がある、子どもを迎えにいかなきゃならない、食事の支度をしなくちゃならない、そう口にして、家のドアをぱたんと閉めるためだろうか(p311)

葵の元を逃げるように去った後そんなことを考えていた小夜子だったが、中里さんからの抜け駆け電話で葵の近況を聞き、行動に出る。
そして、ファミリーサポートセンターでの1組の夫婦との出会いにより、その問いに1つの答えを導き出す。

なぜ私たちは年齢を重ねるのか。生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ(p321)

そして「いっしょだと、なんだかなんでもできそうな気がする」とかつて感じた葵のもとへと小夜子は再び戻る決意をする。


私はこの作品から“また出会うために生きる“という考え方を得た。
この考え方は、辛いことの多い人生を生き抜くための1つの指針になってくれると信じている。
なぜなら、私にもまた出会いたいと強く願う人がいるからだ(前述の通り人間不信気味の私がこんなことを言うのは矛盾しているような気もするが)。
葵がラオスのトラックでナナコのいる世界があると信じることを選んだように。
そして小夜子との出会いを通して、葵がナナコがいる世界に再び戻ったような感覚になったように。

加えて、ナナコが言っていた「何もこわくなんかない。こんなところにあたしの大事なものはない」という言葉も一緒に心に持ち併せることができれば、目の前の迷惑に振り回されず前に進んでいけるのではないだろうか。
読了した今、そんな勇気で満たされている。

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