
爆発が先か、芸術が先か。
小学生の頃の僕にとって、図画工作は大の苦手だった。どの単元もそう。何も出てこない。創造性が乏しいうえに、自分が描いた、作ったものを他の人にどう評価されるかを気にして、何もできない。周りで自由に楽しそうに取り組んでいる友達が羨ましかった。

もちろん、岡本太郎氏が元ネタである。
なーにが「芸術は爆発だ」だ。
「『爆発させた』ものが『芸術』と認められてよかった!」の間違いではないのか?
何も知らない当時の僕はそう感じていた。
芸術に何かしらの答えを求め、それに近いものを作ろうとしていたのだ。それが芸術かどうかを決めるのは先生などといった他人であると思っていた。困るのも無理はない。
先日学校の行事で岡山芸術交流2022の一部を見ることがあった。引率のために行ったのだが、これがまぁ意外にも面白く、しっかり見入ってしまってあっという間に時間が過ぎた。

個人的にはこの空間が1番好きだった
ただ、全体を通して、よく分からんが好きだなぁ、というのが正直な感想。この分からなさを説明できたらもっと面白いんだろうけれど、生憎自分はまだその語彙力も感受性も持ち合わせていない。これから先、手に入れられるかどうかも分からない。でも何となく、これでいい気がしたし、芸術が楽しめた自分が嬉しかった。
今日は瀬戸内国際芸術祭2022の最終日。
岡山のも面白かったし、せっかくなので覗いてみよう、となった。人生どこでどう考えが変わるか分からないものだ。
とは言っても、島々を渡り歩く時間と体力もないので、今回はずっと何となく行きたくて、でも行っていなかった、直島に行くことにした。

いや、分からんよ。やっぱり。何が伝えたいのかも、自分がこれらから何をどう感じてるのかさえ。ただただ「ほえー」となって、何となく写真撮ってみたり自分なりに解釈したりしているのである。
まぁでも、とまわりながら考えた。作者も「〇〇って感じてほしい」と思いながら作っているわけでもないんだろうな。それこそ、片山真理さんの言葉を借りると、芸術に『タグ付け』は野暮なのかもしれない。自分が思っていたより、芸術ってもっと自由に解釈してよくて、人それぞれで解釈が違っていいのかもしれない。そりゃ、有名な考察もあるかもしれないけど、それと一緒じゃなくてももちろんいいのかもしれない。
そして、この解釈の多様性が芸術の醍醐味のひとつなのだとしたら、そりゃ確かに爆発させた者勝ちだ。他人の承認を必要とせずとも、それは作者の中で既に芸術たり得ているわけだし、その中でも爆発しているほど解釈が増えて、芸術的価値が深まるわけだから。
とまぁ、こんな感じで考えていると、「図画工作が苦手」という理由だけで避けていた『芸術』も少しは好きになれそうな気がした。これからもなんとなーく、ぽやぽやーっと芸術を感じる機会を定期的に設けようかなと思った。
最後に、先述の片山真理さんのインタビュー記事を添付して終わろうと思う。岡山芸術交流祭は11月末まで開催中のようなので、気になった方はぜひ足を運んでみていただきたい。
ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました。