見出し画像

【短編】お粥やとその周辺「銀色のバス(上)」

ガシャリ……。
車が壁に激突したような衝撃音に、僕の体は反射的に飛び上がった。
激痛が頭の天辺に襲ったのは、地面に着地してから数秒後。ズキズキと痛む頭を両手で抱えながら恨めし気に顎を突き出したが、木の太い枝も、店先の看板も見当たらない。それなら、考えられるのは一つだけ……。
昨日の喧嘩を根に持っていたら、あり得ない話ではない。

隣を歩く彼女に顔を向け、痛みを堪えながら、僕は口角を持ち上げた。
「どうしたの。お腹でも痛くなった?」彼女はさらりと言った。
笑ったつもりだが、僕の表情は腹痛にしか見えなかったらしい……。

気を取り直して、彼女に言葉をぶつけた。
「いま、僕の頭をぶったよね。昨日のことを怒っているんでしょ。でも、ちゃんと謝ったじゃないか。それなのに、いま頃になって、それも不意打ちなんて、大人げないよ」
彼女は目を丸くしてキョトンとしている。

喧嘩の原因は些細なことだ。彼女とのデートの約束を忘れて、その日にアルバイトを入れてしまったからだ。日程が動かせないコンサートに行くわけではないのだから、日にちを変更すればよいだけなのに、彼女は許してくれなかった。
売り言葉、買い言葉で喧嘩に発展し、いつものように僕が折れて、その償いとして今日の豪遊となった。豪遊と言っても、予算は二人で一万円だ。

「私が殴るわけがないでしょ」
「本当に何もしていない?」
彼女は形のよい唇をキュッと結んで押し黙った。
やっぱり、何かしたんだ……。
これ以上追及するのは面倒だ。そもそも、喧嘩の原因は僕にあるのだから、ここは大人になって耐え忍ぼう。

救急車のサイレンの音が遠くから聞こえてきた。
さっきの激しい音は、やはり事故が原因だったらしい。
「車が衝突したのかな。怪我人がいないといいんだけど……」
僕の声が聞こえていないのか、彼女はそれには答えず、明るい声で言った。
「お腹が空いたから、どこかで何か食べましょう」

彼女は首を伸ばすようにして道路の先を眺めた。
「あそこに暖簾が出ているわ」
紺色の暖簾は、秋の涼しい風を孕んでふわりと揺れている。
紺の布地に浮かぶ白い文字には「お粥や」とあった。

僕は胸の内で舌打ちをした。
デートでお粥は有り得ない。デートじゃなくても、お粥なんて駄目だ。
お粥って、米を水で煮ただけじゃないか。病人の食べ物だろう。

「別の店にしよう」と声を掛けるより先に、彼女はすたすたと歩き出した。
彼女の後を追おうとすると急に眩暈がして、僕はその場にしゃがみ込んだ。
鼓動が速くなっている。額に滲んだ汗が頬を伝わって流れ落ちて行く。
背筋が冷たく感じるのは風邪を引いたからか。

顔を上げると、お粥やから出て来る彼女の姿があった。隣には、小学生くらいの女の子がいる。その子は赤褐色の着物を着ていた。
「どうしたの?」駆け寄って来た彼女が僕の隣で膝を曲げた。
「ちょっと立ち眩みがしただけだから……」

僕は脚に力を入れて立ち上がった。
彼女の手が僕の手を優しく掴んだ。
その手はとても冷たい。でも、柔らかい。
不思議なことに、寒気はなくなり、汗も引いていた。
まるで、彼女が僕の中から悪いモノを抜き取ってくれたみたいだった。

「お粥やさんは営業していなかったの」
それはよかった、と口から出かけた言葉を呑み込み、僕は残念そうに頷いて見せた。
気付くと、僕の横に着物姿の女の子が立っていた。いつの間にか、僕の腕を掴んでいる。その小さな手は、彼女の手より少しだけ温かい。

「この子は、お粥やさんの子供なの?」
「わからないわ。でも、あの店に住んでいるみたい」
女の子の手を振り解こうと、やんわりと腕に力いれたが、小さな手は離れない。泣かれたら面倒で、とりあえず、そのままにしておくことにした。

「どこの店に入ろうか」
「ごめんなさい。私、行かなければいけないところができたの」
「いまから?」
彼女は僕の顔を真っ直ぐに見つめたまま頷いた。
その真剣な表情に、僕の心臓は嫌な音を響かせて鼓動を打った。
もしかしたら、昨日の喧嘩は、僕が考えていたほど些細な話ではなかったのかもしれない。彼女は僕に愛想を尽かせたのではないか。
それは、すなわち、別れを意味する。

「じゃ、私、行くね」
彼女はよく通る声で言うと、くるりと背中を向けて歩き出した。
「待ってよ。僕が悪かった。謝るから……」
彼女は立ち止まらない。
後を追おうとした僕の腕に女の子がしがみ付いた。
どうやら、女の子は彼女とグルらしい。
そんなことを考えている間にも、彼女の姿は小さくなっていく。

銀色のバス(下)に続きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?