【短編】お粥やとその周辺「僕の壮大な計画の遂行には、選択が欠かせません」
奥手の「僕」が、憧れの彼女と楽しい時間を過ごすため、困難な選択に迫られるという物語です。だいそれたことを言いましたが、「僕」が彼女をどの店に誘うかと悩む小話です。
選択できないこと、それすなわち優柔不断なり
一見したところ、僕の姿は虚空を見つめる学生にしか見えないことだろう。しかし、実情は違う。眼トレも真っ青なくらいに眼球を高速に動かし、店から店へと視線を走らせている。
お目当ては、大小さまざまにして色とりどりの飲食店の看板だ。
時刻は午後五時半。夕方の空気には、まだ昼間の熱気が残っていて、僕の額には大粒の汗が滲んでいる。
左隣を歩く彼女の頬も薄っすらと汗ばんでいた。
これ以上、歩き続けるのは危険だ。早く、入る店を決めなければならない。
昨晩、眠気と戦いながら三時間もかけて調べた二つの店は、示し合わせたようにシャッターが閉まっていて、僕は叫びたくなるのを必死に堪えた。どうして、三店目を検索しなかったのかと、悔やまれてならない。
選択ができない男イコール、決断力のない男、それはすなわち優柔不断な男になる。
優柔不断が理由か否かは不明だが、言い寄って来た男子学生たちを、彼女がバッタバッタと切り倒したのは有名な話であり、同じ大学の建築学科に通う学生なら知らない者はいない。
五人目がふられたと知ったときは、自宅のアパートで独り祝杯を挙げ、「彼女らしいな」と、さらなる好意を募らせた。
しかし、である。いざ、自分がその立場に近づくと話は違う。
いま二人で一緒にいるのはデートと呼べる代物ではなく、教授の命令による。
「知り合いの建築士から、建築模型を借りて来てくれ」と頼まれ、その大役を運悪く教授の隣席にいた僕が仰せつかった。「君一人では心配だな」と眉間に皺を寄せた教授が、信用のおける人物の代表格である彼女に白羽の矢を立てたのは自然の流れだった。
その直後、僕を教室の外へ連れ出した男子学生たちは、親の仇を取るがごとく怖顔で、「俺に代われ」の大合唱を始めた。
そんなことで、たじろぐ僕ではない。女性陣に「お願い~」とせがまれたならまだしも、むさ苦しい男たちに言い寄られても心が揺らぐはずもなく、むしろ、頑なになったくらいだ。僕は、やるときはやる男である。
並んで歩く、二人の距離は三十センチもない。
柔らかい手をそっと握りたいという衝動は、健全な男子なら誰しも抱くところであるが、それを戒めるように僕の両手は風呂敷に包まれた建築模型によって塞がれている。ありがたいやら、悲しいやら、自分でもよくわからない。
まあ、手が空いていたとしても、そんなことをする勇気はないのだが……。
ちなみに、建築士が用意した風呂敷には、薄い紅色の上に鶴と亀が並んでいる。結婚式の引出物を包んであった代物なのは明らかで、所々に黄色い染みがあるところからして相当の年代物と考えてよいだろう。
恥じらいのある僕としては、何羽もいる鶴は無理としても、せめて間抜け面の亀は隠したいところだが、二匹いる亀の位置は微妙に離れていて、一匹を隠せば、もう一方が「何か食わせろ」と顔を突き出す。いまも、その一匹が不服そうに首をもたげていた。
風呂敷の話はさておき、二人きりで肩を並べて歩く様子は恋人に見えなくもなく、彼女に密かに恋心を寄せている身としては、是が非でもこのチャンスをものにしたい……と思うのは、空から雨が降るがごとく当然の話だ。
かくして、僕の「彼女と楽しいひとときを、できれば次のデートの約束を」という壮大な計画は幕を開けた。
しかし、夕食にと考えていた二つの店が閉まっていたという予期せぬ展開に、いきなりピンチに陥った次第である。
そして、いま、僕はどの店に入るべきか、悩みに悩んでいる。
「店くらい、どこでもいいだろう」と安易なことを言うなかれ。
その選択により、彼女との未来が永遠に閉ざされるかもしれないのだ。ただでさえ、女性にモテないと自覚している僕には、店の雰囲気や食事の味は重要で、欠落したコミュニケーション能力を補ってもらわなくては計画の遂行は難しい。
最寄りの駅に着くまで、およそ五百メートル。時間にして六、七分というところだ。
店を早く決めなくてはならない。どの店にしよう……。
緑色の看板の洋食屋はどうか。店の前に出ている手書きのメニューの内容は悪くなさそうだ。アルコール類もあるに違いない。
よし、と心の中で気合を入れたところで、はたと考えた。
何と言って、彼女を誘えばよいのだろう……。
昨晩考えたシミュレーションでは、「この店、雑誌に載っていたよ」と爽やかな笑顔で声をかけるつもりだった。探し出した二店とも同じフレーズになったのは、雑誌に載っていた店の紹介記事を起点として調査を開始したからだ。
しかし、目の前の洋食屋は雑誌に載ったか否かは不明だ。嘘を吐くのは簡単だが、彼女がその話を店主に振り、「うちは雑誌になんて載ったことはありませんよ」と不愛想に答えられたら、僕の立場はなくなる。
彼女の目に、僕は嘘吐きのオオカミ少年に映ることだろう。そして永遠に二人が結ばれることはない。
考えすぎだと言わないでほしい。
確率がゼロでない以上、絶対に起きないとは言えないのだから。
そんなことを考えている間に、洋食屋の前を通り過ぎてしまった。
後悔しても、もう遅い。光陰矢の如し、である。
どうして、いつも僕はこうなのだろう……。
僕にとって「優柔不断」とは、近くにありて悔やむもの
「優柔不断なんだから」と、最初に呆れられたのは、十二歳になって間もない夏休み、炎天下の中、二人で入った美術館の、小学生が描いた絵がずらりと並んだホールの中央だった。冷房が効いていたはずなのに、やたらと暑くて、背中を冷たい汗が芋虫のように這っていたのを覚えている。
いまの僕からは考えられない話ではあるが、初デートはそのときだ。
お相手は、同じ小学校に通う同級生の、ミカちゃんという名の少女だった。男子の人気投票では、稀にしか名前があがらないミカちゃんではあったが、それでも僕にとっては下敷き越しに太陽を直視するくらいには眩しい存在で、じっと見つめられると頬が熱くなり、喉がカラカラに渇いた。
国語の成績が芳しくなかった当時の僕にとって、「優柔不断」は聞き慣れない言葉であり、ミカちゃんの発したその言葉を、頭の中で「いいかげんな野郎」と変換するまでにいくらかの時間を要した。
その夏の日以来、ミカちゃんは一言も口をきいてくれなくなった。僕のほうから声をかける勇気などあるはずもなく、私立の女子中学に進学したミカちゃんとは一度も顔を合わることなく歳月は流れた。
何がいけなかったのだろう……。
自動販売機で冷たい飲み物を買おうとしたときか。
大好きなカルピスソーダのボタンに触れる寸前、「カルピスじゃ、幼く見られるかも」と子供心に考え、伸ばした手を十センチほど右に動かしてコーラのボタンを押そうとし、そこで再び「炭酸より、天然水のほうが健康的で、好感度が上がるんじゃないか」と心が揺らいだ。
でも、やっぱり、カルピスソーダの甘酸っぱさを捨て切れず、そこにオレンジジュースとドクターペッパーが加わっては収拾がつかなくなり、僕の右腕は糸の切れた凧のようにゆらゆらと宙をさ迷った。
それだけではない。ミカちゃんに、「ハムサンドとツナサンド、どっちが好き」と探るような笑みを向けられたときも言葉に詰まった。
もしかして、次のデートのときにサンドイッチを作ってきてくれるのだろうか。それって付き合うということだよね。大学二年生にして、いまだ彼女がいない兄貴には申し訳ない話だと思ったが、それはそれとして、彼女と呼べる存在ができるのは嬉しかった。
「ねえ、どっちが好き?」
僕は、顔がカッと熱くなるのを感じながら、途切れがちに答えた。
「ツナサンド……。でも、ハムも美味しいよね。ツナは食べるとき、ポロリと落ちると服が汚れちゃう。うちの母さん、食べ物で服を汚すとうるさいんだ。ハムならそんなことはないし。でも、ツナのグニャリとした感触はハムより好きなんだ」
いまから思えば、そのとき、ミカちゃんの目尻が吊り上がったように思えたのは気のせいではなかったのだろう。
我が前に幾筋もの道あれど、進める道は一つなり
不意に彼女が口を開いた。
「お腹がすいちゃった。もし、よかったら、どこかで食べて行かない?」
その言葉の意味がわからず、いや、信じられず、僕はフリーズした。
しかし、その後の僕の再起動は早かった。自分を褒めてあげたい。
激しく鼓動を打つ心臓を宥め、彼女に気付かれないように鼻から息を吸い、脳に大量の酸素を送って頭を高速に回転させた。
「奇遇だね。僕も、お腹がすいていたんだ」
「奇遇」という言葉は不自然だったが、言ってしまったものは仕方がない。
失言をなかったことにするように、僕は慌てて言葉を続けた。
「何か食べたいものはあるの……」
事前に調べておいた二店の持ち駒が使えなくなった以上、賽を彼女に預けるのはベストの選択だ。和食か洋食、中華であろうと、進む方向を決めてもらえれば、僕の負担は半減する。
僕はさり気ない素振りで周囲に視線を這わせた。
右前方に、和食の店が一軒、その隣の居酒屋も和食の部類に入れてよさそうだ。左前方には、洋食屋らしき店と、間口の狭い中華料理屋がある。
中華料理屋に入ったらどうだろう。ラーメンと餃子では華やかさに欠ける。奮発して、天津丼はどうだ。中華丼でもいいのではないか……。
いかん、いかん。油断すると、普段食している丼ものに流れてしまう。初めての食事が、丼ものでは嫌われるのではないか。和食屋に入っても、かつ丼、天丼は控えるべきだろう。牛丼もしかりである。
それなら和風居酒屋はどうだ。しかし、居酒屋と言えば、お酒を飲む場所。彼女を酔わせて、あれやこれやと……。それでは下心が丸見えではないか。
僕は首を強く振り、邪念を追い払った。
取りあえず、和洋中華を確保したところで、僕は胸を張った。
さあ、食べたい物を言ってください。即座に、お答えしましょう。
僕は目に力を入れて彼女の顔を見つめ、次の言葉を待った。
彼女は柔らかく微笑んだまま、「あなたが決めて」とさらりと言った。
その声は、鈴の音のごとく可憐なのに、悪魔の囁きにしか聞こえない。
嘘だろう……。
頭の中に浮かんでいた、和食店と居酒屋の窓から漏れていた灯が消え、洋食屋の看板がバタリと音を出して地面に落ち、中華料理屋のシャッターがガラガラと不快な音を響かせて閉まった。そして夜の帳が下り、すべての店が漆黒の闇に吞み込まれた。
僕の答を待つように、彼女は笑みを浮かべた顔を向けている。可愛い……。
愁いを帯びたような、彼女の黒い瞳が、ゆらりと揺れた気がした。
その揺れは、哀れんでいるようにも、楽しんでいるようにも見える。
もしかして、僕は試されているのか……。
誰もいなければ、絶叫したいところだ。いや、誰かがいても遠慮なく叫ぶ。それができないのは、目の前に彼女がいるからだ。
脳裏に、和食店と居酒屋、洋食屋、中華の店が浮かんでは消え、そして再び浮かんだ。そこに喫茶店と牛丼屋、寿司屋の看板が、オレもオレもと押し寄せて来る。これでは、どの店にすべきか決められない。
黙ったまま、固まってしまった僕に向かって彼女はぽつりと言った。
「ごめんなさい。迷惑だったかしら」
彼女は笑みを弱め、僕から視線を剥がすと遠くを眺めた。
そんなことはありません。
ブンブンと首を横に振ると、視界の隅に紺色の暖簾が入った。
その暖簾は、おいで、おいで、をするようにゆらゆらと揺れている。
あそこにしよう。あそこしかない……。
まさに天の恵みだ。神様……ありがとうございます。
しかし、僕の感謝の気持ちは、紺色の上に浮かんでいる「お粥や」という白い文字を目にして、無残にも打ち砕かれた。
お粥……。
お粥は病人の食べ物だ。いまの僕に必要なのは、雰囲気を盛り上げてくれて、会話が弾む夕食だ。しかし、しかしである。
平常時なら即効でパスするところだが、いまは非常事態だ。このまま帰るくらいなら、どの店でもよいのではないか。
案外、「健康的よね」と言って、彼女は喜んでくれるかもしれない。
しかし、話が盛り上がらず、お通夜状態になったらどうしよう……。
そんな僕の危惧をよそに、彼女はさらりと言った。
「お粥やさんなんて珍しいわね……。よければ、あの店にしましょう」
良いも悪いもあるはずはなく、僕はパブロフの犬のごとく即座に頷いた。
お粥やの店内には、他に客の姿はなく、店主の優しい笑みに迎えられて、僕と彼女はカウンター席に並んで座った。
驚くことにメニューは三品しかなく、梅粥、卵粥、店主のおすすめのお粥、という、お粥の三連打。それで商売が成り立つのかと心配になった。
店主がカウンターの上にそっと置いた湯呑に口を付けながら、僕は思考を巡らせた。三つのメニューの中から一つ選ぶのは簡単なようで難しい。
なにせ、すべてお粥なのだ。牛丼とお粥なら、牛丼と即答できる。カレーでも同じだ。しかし、お粥同士ではそうもいかない。
「美味しいお茶ですね」
彼女の声に、店主は照れたように笑みを強めた。
三者択一の問題に頭を悩ませていて、お茶の味がわからなかった。
言われてみれば、確かに美味しい。熱からず、冷たからずで、ほんのりと香ばしい。
「何にする?」
彼女の問いに、再びお茶の味がわからなくなった。
黙り込んだ僕を、じっと彼女は見守っている。カウンターの向こうから、店主も見つめていた。
どうやら、僕が口を開かなければ、時間は動き出さないらしい。
覚悟を決めるときがきたようだ。それも、待ったなしで……。
「梅粥……」
僕の言葉に、店主の顔が俄かに曇った。
「ではなくて、卵粥……」
店主の眉間の皺が深くなった。黒い瞳は何かを訴えるように揺れている。
「というのは嘘で、おすすめで」
店主の眉間の皺が浅くなり、口許に柔らかい笑みが滲んだ。
「私も、おすすめでお願いします」
彼女の声に、店主は僕に向かって小さく頷き返した。
反射的に僕も顎を引いた。
いま、僕と店主の間に何かが流れた気がしたが、それが何であるかはわからない。
選択の顛末、幾多の困難を乗り越えて
店を出てから、僕と彼女は並んで歩いた。
結果から言えば、店主のおすすめは大正解だった。
確実に二人の関係は親密さを増したと思う。二人だけの秘密を見つけたような、そんな甘酸っぱい時間だった。
お粥が出て来るまでに二十分近く要したが、その時間は居心地のよいもので、会話は少なくとも、くつろいだ彼女の横顔を見ているだけで幸せだった。
店主は「遅くなってすみません。梅と卵粥なら十分くらいでできるのですが」と、しきりに頭を下げた。
予想をはるかに超えた、お粥の美味しさに、僕は言葉を失い、彼女は感嘆の声を何度も漏らした。その味を具体的に説明したいところだが、残念ながら語彙の少ない僕では表現できない。気になる諸氏は「お粥や」に行かれることをお勧めする。
話は少し進んで、駅に向かう途中での出来事である。
道の端に人だかりができていた。何事かと首を伸ばして覗き込むと、工事中のビルから落下した鉄骨が地面に転がっていて、アスファルトの一部が陥没していた。幸い、怪我人はいなかったと言う。
不意に、鉄骨の下に、薄紅色の布が見えた気がした。そこには鶴と亀の絵柄があった。
背筋がすっと冷たくなり、気が付くと手にしていた建築模型を強く掴んでいた。風呂敷越しに、模型の角ばった感触が伝わってくる。
もう一度、鉄骨を眺めたが、どこにも薄紅色の布は見当たらない。
いまのは何だったのだろう……。
野次馬の間から聞こえてきた「いつ落ちたの?」という中年女性の声に、「十分くらい前だ」としゃがれた男の声が答えた。
十分という言葉が、耳の中で残響した。
もし、梅粥か卵粥を注文したら、待ち時間は半分になり、ちょうど鉄骨が落下したときにこの場所を歩いていた計算になる。
あのとき、店主のおすすめを選んでいなかったら……。
いや、それは考えすぎだ。そんなこと、あるはずがない。
「どうしたの? 何か、おかしなことでもあった」
いつの間にか、僕は苦笑していたらしい。
「怪我人が出なくてよかったと思ったんだ」
「本当ね」彼女はしみじみとした息の多い声で言った。
鉄骨の件は別とすれば、僕は彼女と楽しい時間を過ごせた。
彼女と親しくなれた原因を辿れば、お粥やを選んだことに行き着く。
我ながら、よい選択だった……ということにしておこう。
後日談 「お粥や」は何処へ
この話には後日談がある。
彼女と楽しい時間を過ごした一週間後、僕は意を決して彼女に声をかけた。
本当は、遊園地か映画館へ誘いたかったが、まだ、その勇気はなかった。
「これからお粥やへ行くというのは……どうかな」
心臓を高鳴らせた僕に向かって、彼女は「いいわよ」と微笑み返した。
男子学生たちに隠れて、こっそりと大学のキャンパスを抜け出し、電車に揺られ、目的の駅で降りた。
どういうわけか、どんなに歩いても、お粥やは見つからなかった。
狐に摘ままれたような話に、僕は道路を眺めながら呆然と立ち尽くした。
「不思議ね……。でも、楽しい想い出は消えないわ」
そう言って、彼女はそっと僕の手を掴んだ。
夕陽が彼女の頬を淡い紅色に染めている。
柔らかくて冷たい手は、微かに震えている気がした。もしかしたら、僕の手が震えていたのかもしれない。
怖いと思ったわけではない。不思議に感じただけだ。
はるか遠くに、無数の道が見えた気がした。
それらは、こらから選択する道かもしれない。
楽しい世界に繋がっている道もあれば、辛い世界に向かう道もあるのだろう。
どの道が正解かはわからない。正解などないのかもしれない。
それでも、僕は進まなければならない。
どの道に進むべきか迷ったときは、お粥やでの、ゆったりとした時間を思い出そう。慌てる必要はないのだ。
ゆっくりでも足を動かせば前へ進めるのだから。 (了)
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