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お粥やの物語 第1章1-2 「溜息をするたび、幸せは減るんですか」

  

「あの、オジさん、ママに叱られて家を追い出されたの?」

若い母親に手を引かれて歩く、小さな女の子が、僕を指差しながら舌足らずの声で叫んだ。
母親は「見てはいけません」というように、ぐいっと娘の体を引き寄せて、足早に遠ざかって行く。

本当に、そんなことを言うなんて……。

絵に描いたような光景に、クラリと眩暈がした。
小さくなっていく女の子の背中を眺めながら、僕は息の多い声で呟いた。
おじさんじゃなくて、お兄さんだよ。それに、僕は一人暮らしだから……。

「幸せになってね」
女の子の声に顔を上げると、左腕を大きく振る小さな体があった。
母親に引きずられて脇道に入るまでの間、女の子はずっと手を振っていた。

ありがとう……。僕も、君の幸せを祈っているよ。
口の隙間から零れた掠れた声を、湿った風がビルの谷間へと運んで行く。

ガクリと落ちた肩と一緒に首が垂れた。
いかん、いかん、と思いながら顎を持ち上げると、自動販売機の前で佇む初老の男と目が合った。

パナマ帽を目深に被り、右手には黒い杖を握る姿は、モノクロフィルムから抜け出したようで、どこか現実離れしている。
目は細いのに、なぜかしらそれは大きく見え、そこに泥棒を見るような鋭さが加われば、漂って来る空気は不穏なものとなり、僕は思わず後ずさりした。

もしかしたら、老人は道に迷ったのか、それとも自動販売機の使い方を知らないとか。困っているなら声をかけるべきだが、不躾に見つめられたら勇気は萎む。

老人はおもむろに左手を持ち上げ、「おいで、おいで」をするように指先で空をかいた。よく見ると、老人は僅かに口角を持ち上げている。
口の端に鋭い牙が覗いたように見えたのは気のせいだろうか……。

背中を冷たい汗がゆっくりと流れ落ちていく。
老人の傍へ行ったら、あの世か魔界に連れて行かれそうだ。
それは大袈裟としても、碌なことにならない気がする。

老人の手招きに気付かない振りをして直立のまま回れ右をする。
背後から、低い声が聞こえてきたが、それを耳鳴りと思い込み、猛然と駈け出した。

ビルの角を曲がったところで立ち止り、呼吸を整える。
額に滲んだ汗を手の甲で拭いていた。
脇の下も背中も汗でびっしょりと濡れている。
これで一安心だ。

安堵の息を吐いた瞬間、耳の奥で「幸せになってね」という少女の声が残響した。

幸せか……。

幸せについて、真面目に考えたこがあっただろうか。
まったく考えなかったとは言わないが、意識したことはないと思う。
最後に幸せだと感じたのは……。
記憶の底を探しても、簡単には見つからない。

一つだけはっきりしているのは、いまの自分の周りに、幸せは見当たらないということだ。

行く当てもなく、重い足を引きずるようにして前へ進んだ。
立ち止まったら、不審者として警察に通報されるかもしれない。
すれ違う人々が浴びせる鋭い視線からして、その可能性は少なくないだろう。

不意に、何かが足元を擦り抜けた。
丸味を帯びた、その茶色い物体に、僕の口から「ひぇ~」と情けない声が漏れる。

その生き物はフサフサの尻尾を揺らしながら、路肩に止めてあった車の下に潜り込んだ。
猫だろうか。それにしては体が大きくないか。
案外、巨大ネズミかもしれない。確か、カピバラという名前だったと思う。
普段の自分なら好奇心に駆られて車の下を覗き込むところたが、いまは、そんな気力は残っていなかった。

『私の靴が見つからないの……』

不意に、耳元で女の声が響いた。
悲しさを満載したその声に胸を小さく震わせながら、僕は首を回し、周囲を見渡した。
遠巻きから、お婆さん連中が好奇の視線を浴びせてくるだけで、どこにも声の主は見当たらない。

幻聴か……。

肉体は疲れ果て、心はボロボロなのだ。妙な声が聞こえても不思議ではない。しかし、物悲し気な声は妙にリアルだった。

もしかしたら、自分の口から漏れた心の声のだろうか。
でも、その声は女の人のものだった。それも若くて綺麗な……。
見てもいないのに、そんなことがわかるはずはない、と突っ込まれそうだが、そう聞こえたのだから仕方ない。
彼女がいない歴三年の、寂しい二十六歳の男の願望が生み出した幻の声と考えるのが一番合理的な説明だろう。

首が垂れると、泥で汚れている、くたびれた黒い革靴が視界に入った。
口の端から、熱くて湿った溜息が漏れる。

今日一日で、何度、溜息を吐いただろう。
両手の指で数えられるはずもなく、もしかしたら三ケタの大台に乗っているかもしれない。

溜息を吐くたび、「幸せは減っていく」と言ったのは祖父だ。
それが事実なら、僕の幸せは尽きたことになる……。
気が付くと、また一つ、溜息が口から漏れた。


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