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お粥やの物語 第1章3-1 「住み慣れた社宅は、別れを告げた彼女のように冷たくて」

謙太の頭の中で、途切れがちな映像が現われては消えていく。
黒い海の底から出現したような記憶はどれも悲しいものばかりで、目頭が熱くなる。

さかのぼること一時間前、会社から帰宅して目にしたその光景はあまりにも衝撃的だった。いまでも網膜にくっきりと焼き付いている。
もしかしたら、一生消えないかもしれない。それほどのインパクトがあった。

新卒で採用されてからの三年半、ずっと住み続けたワンルームの社宅は、僕の暮らした痕跡を、強力な洗剤で洗い流すように整然と片付けられていた。
備え付けの家具と電化製品は、喧嘩別れをした彼女のように「あんたの顔なんて見たくない。いますぐ出て行ってよ」と、よそよそしくなっていたのには驚いた。

四階建てのマンションの社宅を牛耳る四人の主婦たちが、部屋の中を、箒やゴミ袋を手に忙しなく行き来していた。

僕の私物は、半透明のゴミ袋に放り込まれ、無造作に廊下に積んであった。
ちゃんと燃える物と、燃えない物に分別してあったところが切ない。

学生時代、商店街のクジ引きの三等の景品として手に入れた茶色い犬の縫いぐるみ(ポンちゃん)が、可燃用のゴミ袋の中から助けを求めている姿を目にしたときは、口の端から声にならない嗚咽が漏れた。

呆然と立ち尽くす僕に向かって、リーダー格である営業一課の課長夫人は目を合わせないまま、おもむろに右手を突き出し、部屋の鍵を返すように要求した。

「冤罪なんです」と弁明しようとしたが声にはならなかった。
所詮は負け犬の遠吠えである。
それに彼女たちに訴えてもしかたがない。会社に命じられれば、社宅で暮らす人間に逆らう術はないのだ。触らぬ神に祟りなしである。

僕は奥歯を噛み締めたまま、学生時代にワンダーホーゲル部で使っていた巨大なリックと、四つある車輪のうちの一つが壊れているキャリーバッグに私物を詰め込んだ。
深々と一礼したが、課長夫人たちは顔を上げようとせず、一言も声を発しなかった。

とぼとぼと階段を下りていると、背後から足音が近づいて来た。
振り返ると、息を切らして駆け寄って来る課長夫人の姿があった。
課長夫人は僕に紙袋を押し付けるようにして渡すと、くるりと背中を向けて戻って行った。

餞別だろうか……。
立場上、他人の目を気にして、部屋の中では渡せなかったのかもしれない。
胸の奥がじんわりと熱くなり、目頭に温かい涙が溜まった。

胸の中で頭を下げてから、紙袋の中を覗くと、そこには冷蔵庫に入っていた長ネギと人参、底には芽が出かけたジャガイモが三つ転がっていた。
涙は急速に温度を失い、冷たい水滴となって、僕の頬をなぞったのは言うまでもない。

第1章3-2へ続きます。


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