感覚へのアプローチ色々、インターステラー、砂と水
自分とまったく違う認識の方法でものごとを分析しようとする人と、ときどきああしてじっくり話し合うのは興味深いことだなと思う。
でも、自分がすらすらとものが言えた(ように感じる)時ほど、あとになって
「私はなんにも分かっていなかった」ということになるので、やっぱり今回も「彼が意図していたことをきちんと汲んでいなかったな。それがちゃんと受け取れていたらもっと自分の手持ちだけでしゃべるようなことから脱することができたのかもしれないのに」
という気持ちになる。
今回も、やはりなった。
いつでも、早く言わないと手遅れになってしまう、ような気持ちがして焦って濃縮して話そうとするけれど、話をするときだって俯瞰しておかなければならない。
しんと静かな自分をいつでも持ちながら話ができたらいいのにな。
なんでいつも全力で突っ込んじゃうんだ。
「インターステラー」を再び見た。
今度はフランス語、フランス語字幕で見てみたけれど、何を言っているのかほとんど分からなかった。
会話が早いとこんなにわからないのか。
一度見て内容は知っているので問題はなかった。
前回気になった、変な空白は今回も気になった。
虫と雷の音がしながら土星の環を見るシーンはもっと長くてもいいのに。
インターステラーは映像や物語が面白いのでもちろん楽しいのだけれど、キューブリックの2001年のことをどうしても思い出してしまうので、今やああいう映画をつくることはできないんだろうか、ということを考えたりする。
なんでもないことを雄弁に語り、いつの間にか自分の人生のある時間がそこに投影されるような、視覚を通じて色んな感覚を接続するようなこと。
そういえば、関わっているプロジェクトが少しだけ動き出した。
映像作家と音楽家ふたり、舞踏家と私の5人のプロジェクト。
もともとある作品に私が加わるかたちなのだが、私はこの作品にこれ以上多くの要素が加わらないほうが良い気がしている。
私が入ることで蛇足になるようなことは嫌なので、でも私が加わったからこそ新しい枝が見えないと意味もないので、ちょうどいいであろう分量で自分のからだをそこに入れてみた。
リハーサルは短いので、ちょっと圧縮して。
「実際は本番は長いと思うから、その場合は私はこんなに早く動かないと思う」
というような注釈をつけながら。
映像と一緒に舞台に立つと、ダンサーの動きも視覚で捉えるものだから、足したり引いたりをしっかりしなければいけない。
でも、音楽も同じだと思う。
音楽が視覚の…というか、空間のなかでダンサーのからだの入る余地を無くしているような作品はたくさんある。
音も映像も照明もほんとうは一緒に作ってゆくべきなんだけど、実際には予算的にそうはいかないので、いつもむつかしい。