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お粥やの物語 第4章1-1 「会社では、完全なスルー状態です」

僕は、誰もいない五階の廊下を、自分の足音を聞きながら進んだ。
昨日まで働いていた部屋の前で立ち止まり、扉を見つめる。
ドアノブを掴もうとしたが、どうしても腕が持ち上げらない。

そのまま二分ほど固まっていると、背後から足音が近づいて来た。
見知った先輩社員が近づいて来る。一礼してから、僕は飛びのくようにして脇に寄り、道を開けた。
先輩は何も言わないまま、扉を開けると部屋の中に足を踏み入れ、僕は反射的に閉まりかけた扉に体を滑り込ませた。

すでに席に着いていた社員たちが、一斉に顔を上げた。
彼らの視線は僕にかすりもせず、先輩に向かう。
誰も僕と目を合わる者はいない。
昨日の敵は今日の友ではなく、昨日の友は今日の敵、それも強敵ばかりだ。

「おはようございます」
肺から絞り出した声はぎこちなく、震えていた。
やはりというように、誰も挨拶を返さない。
予想していたこととは言え、僕の心はグニャリと潰れた。

自分の席を探したが見つからない。
窓際にあった僕の机がなくなっている。
まるで、僕の存在を消し去るように、机があった場所の床はピカピカに磨いてあり、一輪の花を添えるように、ゴミ箱がぽつんと置いてあった。

扉を背にして立ち尽くしている僕の前に、山際課長がやって来た。
山際は四十歳を超えたばかりだが、髪は少なく、禿げ上がった頭頂部は、側頭部から持ち上げた髪で覆われている。

身構える僕を通り越して、課長は先輩社員に向きなおった。
「並木が来たかと思ったよ。まあ、いくらあいつが鈍感でも、二千万円を着服してクビになった会社には来られないよな」
僕を完全無視したまま、山際はキンキンとする耳障りな声で続けた。
「警察沙汰にならなかっただけ、ありがたく思ってほしいよ」
先輩社員は曖昧に頷いた。
「あいつ、昨日、会社を出て行くとき、何も言いませんでしたね……」
「反論しないということは認めたということだ」

僕はブルブルと首を振った。認めた覚えはない。
会社を後にしたのは、貝原部長の剣幕に動揺し、「出て行け」という言葉に従っただけだ。
午後五時半の、まだ空が明るいうちに退社したのは異例だった。いつもなら、早くても午後九時過ぎ、普段は十時半を回ったところで退社した。

「僕は犯人ではありません」
僕は声を張り上げたが、誰一人として反応しない。
どうやら、僕が会社に現れても無視するようにと、上から伝令が出ているらしい。

「証拠が見つかったそうですね」
先輩社員が沈んだ口調で、山際に訊いた。
「振り込みの手続きに、並木のパソコンが使われたんだ。パソコンを開くにはパスワードが必要だからな。あらかじめ用意していた第三者の口座に振り込み、そこから自分の口座へ送金したんだろう」
通常なら、送金手続きは経理部が行う。しかし、稀にではあるが、急ぎの案件の場合は、他の部からも取引先に振り込むことができる。当然、上司の決裁は必要だが。

「パスワードは部内で知れ渡っています……」
先輩の淀んだ言葉に、「そうなのかね」と山際がわざとらしく首を捻った。
「仮にそうだとしても、送金の手続きが行われたとき、この部屋にいたのは並木一人だったからな」

それを言われると反論できない。
不正送金が行われた時刻は判明している。三日前の午後八時二十三分。
その時刻、部内に残っていたのは、僕と山際課長、それに貝原部長の三人だけ。僕以外の二人には、その時刻、他の部署にいたという確たるアリバイがあった。

僕はと言えば、その夜は仕事に追われていたせいで、終電に間に合うために、自分の席で仕事を続けた。
時刻をはっきりと覚えていないが、途中で一度、貝原に呼び出され、廊下で説教された。僕のパソコンを不正に操作したなら、そのときが怪しいが、それが何時何分だったかは覚えていない。

おそらく、貝原が僕を廊下に呼び出した隙に、山際が部屋に忍び込み、不正送金をしたのだ……。

「君は並木が犯人ではないと考えているのかね」
山際のきつい口調に、先輩は力なく首を振った。
「私も、並木を信じてあげたいんだが、部長がね」
山際は口許の皺を深くして、困ったように苦笑いをしている。

扉が開き、貝原部長が入って来くると、山際はそそくさと自分の席に戻った。
貝原は悠然と近づいて来る。
僕を完全にスルーしたのは他の社員と同じだった。

第4章1-2へ続きます。


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