お粥やの物語 第2章2-2 「つい食べ過ぎてしまう僕は、ストレスが溜まっているのでしょうか」
手応えを確かめるように、レンゲの先を白いお粥の海に沈めていく。
肉の可能性は少ないが、魚なら十分に考えられる。鮭の切り身ならお粥との相性はばっちりだ。
レンゲの先は、エンジンが止まった潜水艇のように、どこまでも、どこまでもお粥の深海に沈んでいく。硬い手応えがして、レンゲの先端が丼ぶりの底にコツンとぶつかった。
どうやら進入地点と入射角度を見誤ったらしい。
初心者にはよくある話だ。
僕はレンゲをお粥から引き抜き、再度の挑戦を試みた。
二度、三度とお粥にレンゲを突き刺したが、硬質の丼ぶりの感触が繰り返されるばかりで、深海の底に眠っているであろう財宝に辿り着けない。
気が付くと、川底に溜まった泥を掬い上げるように、僕は乱暴にお粥を掻き回していた。
現われるのは白いお粥だけで、鮭の橙色も、卵の黄色も見つからない。
どこから、どう見ても、具なしの白粥だ……。
「そんなに熱くはありません。極度の猫舌でなければ火傷はしませんから」
丼ぶりの中を、レンゲで一心不乱に掻き回す僕の奇行を、店主はお粥を冷ましていると勘違いしたらしい。
「一口、食べてみてください」
店主は無邪気な笑みを浮かべて促した。
人の気も知らないで……。
頬が熱いのは、さらさらと湯気を上げるお粥のせいではなく、腹の底からふつふつと沸いてくる怒りのせいだ。
こうなったら、お粥を一粒残らず平らげて、梅干しの種までかじってやる。
僕はレンゲを握り締めた。
お粥が山盛りになったレンゲを、ガバッと勢いよく口に運ぶ。
こんな店、二度と来るものか。
胸の中で毒づきながら、モグモグと口を動かした。
ゴクリとお粥を呑み込むと、ワンテンポ遅れて、魚介類の風味が口の中に広がった。ただの白粥ではないらしい。
美味しい……。
お粥だから、あっさりしているのは当然だが、そのあっさりさの中に、しっかりとした味が隠れている。濃厚という表現とは違うが、口の中に広がるその味は舌の上を優しく転がるようだ。
それだけではない。胃に流れ込んだお粥は、じんわりと体の芯を温めてくれる。
僕は勢い込んで、お粥を口に運んだ。
慌てて食べたものだから、お粥が喉に詰まって咳込んでしまった。
「大丈夫ですか」と心配そうに覗き込む、店主を手で制して、僕は大きく咳払いをした。
そう言えば、子供の頃から大食いで、早食いだった僕に向かって、祖父は幾度となく注意したものだ。
「ストレスが溜まると、つい食べ過ぎてしまう。いまでこそ痩せているが、若い頃の婆さんはポッチャリしていたんだ。仕事や不仲な両親との関係で悩んでいたんだろう」
僕の知る祖母は、しおらしく我慢するタイプではなく、祖父に向かって怒鳴り散らすその横顔は、どこか嬉しそうだった。
祖母は結婚し、祖父に悪態を吐くことでストレスを発散したのかもしれない。だから、大食いでなくなり、すっきりと痩せた。ありそうな話だ。
そんな祖母とは対照的に、怒られ続けた祖父は、歳を重ねるごとに肉付きがよくなった。歳の割に、食欲が旺盛だったのを覚えている。
祖父に言わせれば、ストレスが原因ではなく、幸せ太りだそうだが、その真偽はわからない。
もう一度咳払いをしてから、お粥を口に含み、ゆっくりと咀嚼した。
お粥の味がじんわりと口の中に広がっていく。
いま、僕は幸せだ……。
これが、祖父の言っていた、幸せの欠片なのだろう。
こんな美味しいものを、食べられるなんて、幸せ以外の何ものでもない。
一粒残らず食べ終えたところで、僕は丼ぶりから顔を上げた。
「美味しかったです」熱い息と共に、素直な感想が口から溢れた。
お世辞ではなかった。
腹八分目くらいだが、満足感でいっぱいだ。
傷心の上、腹がすいていたせいもあるだろうが、それを抜きにしても、お粥は最高に美味しかった。
お粥なんて、と侮った自分が恥ずかしい。
食べ忘れていた三つの梅干しを口の中に放り込みながら、九百八十円以上の価値があった納得していると、舌先を程よい酸味が刺激した。
ありゃ、梅干しも美味い。
祖母の梅干しより、しょっぱさは控え目で、肉厚がある。お粥と同様、何かの味が隠れているのはわかるが、その正体は不明だ。
梅干しをゴクリと呑み込んでから、僕は「ふぅ」と息を吐いた。
それを合図にしたように、胃袋がキュルと縮んだ。
心は満足しても、胃袋はもう一杯と訴えている。
とは言え、その欲求は激しいものではなかった。いつもなら、冷蔵庫の中にある食べ物を手当たりしだい口に放り込み、満腹になるまで食べ続けるところだが、いまは違う。
心が満ちると、食べたいという欲求も薄れるのだろうか。
口の中に残っていたお粥の味を、僕は唾と一緒にゴクリと呑み込んだ。
第2章3-1に続きます。
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